小説「窓の外」山本 洋

「先生。僕、死んじゃうんでしょう…?」
         いつも、隆一に憎まれ口を聞いて、授業もろくに進まないでいたときに孝がぽつ りと呟くように言った。

隆一はこの四月に児童病院の付属養護学校に転勤になったばかりだった。それま で高校で国語を教えていた隆一は転勤した当初何故ここを選んでしまったのか後悔し ていた。十五年間普通高校にいて、異動もそろそろと考えていたときに、転勤希望の 欄に違った職種を見つけ出した隆一は、養護学校も経験してみたいと思うようになっ た。


 それで、異動希望を出したのだが、いざ転勤してみると、そこは病弱児専門の特 殊な養護学校で、戸惑うことばかりだった。 小学部を担当した彼には、どうやって 授業をしていいのだかも分からないし、教科書らしいものもない。暫らくは同僚の見 よう見真似で、紙工作をしてみたり、童話を読んで聞かせようとしたりした。しかし 、彼の持った生徒の孝はそうしたものに一切興味を示さないばかりか、何か注意をす ると、すぐに「うるせーな」と反発する。始めはそんな孝を随分憎らしい子供だと思 った。しかし、検診のあった日に、それとなく担当の医師に、孝の病気の様子を聞い てみてはっとした。

 彼は白血病だった。それ以来、隆一はそれまで持っていた孝に対する感情ががら りと変わった。何を言われても、何をしても、何だか不憫に思われて仕方がなかった 。しかし、それを孝に悟られてはまずいとなるべく平静を装ったのだが、敏感な孝は そんな彼の様子に気付いたのだろう。

 そんなときに孝はその言葉を言ったのである。

 隆一は、一瞬背中が氷るような気がした。この子は今、小学一年生だ。年を数え てみると、ちょうど死んだ子供が生きていたら同じ年なのだった。
「そんなことないよ、今はそんなことを考えずに一生懸命に生きなくちゃ…」

 そう言って、孝の顔を覗き込む。孝の目が、隆一の心の中を読もうとしているの が分かる。その切なさが伝わって、隆一は言葉を出せないでいる。

ーーこんな切ない思いまで、この仕事にはついてくるのだな。ーー
 自分をこんな所まで運んでしまったのは何なのだろうと彼は改めて思う。五年前 、二人目の子供が、内臓に障害を持って生まれた。一年後にその子は死んでしまった のだが、その間、妻の要望で、専属の病院の至近距離のアパートに引っ越したり、上 の子供の面倒を見たりと、隆一の家庭は慌ただしかった。下の子が埋葬されていくと きの妻の顔や、その後の彼女の精神的なショックの続く中で、隆一は何かを見つけな ければならないと思った。
 子供はついに、病院の中から出ることが出来なかった。生まれてすぐにつけた優 という名に、一度もその子供は反応しなかった。沢山の透明な管を身体中につけて動 かなくなった子供を前に、オシログラフの心電図が、直線になっていくのを見守って いるしかなかった。
 妻の裕子はそれ以来、どうしても心電図の直線が目について離れなくなったと言 った。葬式が終わってからも、夜中に突然目を覚まして、病院に行かなければ、など と言いだしたりした。
 始めは隆一も妻が寝呆けて夢でも見ているのだろうと思っていた。しかし、そん なことは暫らく続き、長男の功が、「ママどうしちゃったの」と心配するようにさえ なった。
 隆一が、もうここのアパートを引き払って藤沢にある元の自分の家に戻ろうと言 い出した時だった。
「何を言ってるのよ、あなた。優はどうするつもりなの! 」
 そう言って激昂する妻の目は、隆一の方を向いてはいたが彼を通り越して、もっ と遠くを見つめているように見えた。隆一は、冷たい汗が背中にしがみつくように湧 き出るのを感じた。
 妻はあれから通院を続けている。それから隆一は、仕事の帰りに同僚に誘われて も、決して付き合うことは無くなった。
 彼女は今でも、夜中に急に起きだして、「たいへんだわ。病院にいかなくちゃ」 と着替えを始める。
 やっとなだめて寝かせる間、子供の功が気配で起きてしまう。それまでの生活が がらりと変わってしまった隆一にとって、不思議だったのは、こんな慌ただしい毎日 のなかに、今までに無かったような生活の実感を感じ始めたということであった。
 まだ、優が寝たきりではあれ、生きてこの世にあったとき、一度だけ隆一は、同 僚に誘われて、酒を飲みに行ったことがあった。
 帰ったときの妻とのトラブル、そして翌日病院に行ったときに見た優の姿が彼の なかの何かを冷たュ責め立てた。そんな後悔の念が今になって、彼をこうして突き動 かしているのかもしれない。

 翌日また、病院の廊下を通過して、病室に行く。孝は、いつものようにベッドに 横たわったまま、隆一が来ても、狸寝入りを決め込もうとする。
 隆一はいつものように、孝のお腹をくすぐって、きゃっと言って叫ぶ孝を起こし 、ベッドの横の机の前に座らせる。
「タカシ、お早よう。先生また来ちゃった」
 孝は、そんな隆一をじっと見たまま、返事をしない。
「さあ、授業を始めよう。今日は物語を読もう。いつもみたいな日本の童話じゃな いぞ。ながい、ながーい話なんだ」
 孝はそんないつもと違う隆一の様子に、ついつい引き込まれている。
「アラビアンナイト。千夜一夜物語の始まり始まりー。
 昔、昔アラビアの王さまがとても悪い王さまで、毎日毎日、女の人と一夜明かし ては殺してしまうということが三年も続いていたんだ」
「一夜明かすって?」
「うーん、つまり、一晩王さまにお伽話を聞かせるのさ。ところが女たちは話をす るのが下手だったんだ。そこで、大臣の娘のシャハラザードとドニアザードが、王さ まを諌めるために、王の所に言って話をするんだ。
 妹のドニアが、姉のシャハラの話を聞くという形で、何日も何日も物語を聞かせ るんだ」
 暫らく孝は、隆一の話す、果てのないような物語をじっと聞いていた。
 隆一は、いつに無く情熱を込めて話をする。何時の間にか彼自身今まで教えてい た普通高校とはまた違った、この養護学校でたった一人を相手にした授業に、なにか 感じ始めていたのかもしれない。「先生。この話しいつまで続くの?」
 孝が突然そう言う。
「この話は、ずっと続くんだ。少し疲れたかい? じゃあ、休もうか…」
「先生。この話、きっとずっずっと続くんだね。だって、少なくとも後二人の老人 が話さないと、商人の三分の一ずつの血は一人前にならないもの」
 隆一は、次々に話を生み出すこの語りの手法に気付いてしまった孝の頭の良さに 驚くと同時に、こんな風にして話を続けながら、シャハラザードとドニアザードが自 分たちの命を毎日毎日先延ばしにしていったことが孝の残された人生に重なった。
 孝は、アラビアンナイトの話を隆一が初めてから、「うるせーな」と拒否し続け ていた態度を徐々にではあったが、変え始めた。
 隆一の用意した、紙の筒のような飛行機を飛ばすことも、以前なら、「くだらね ー」と言って取り合わなかったのを、子供らしくはしゃぎながら、隆一と一緒に、窓 から外に飛ばしたりした。
 そんな孝を見ていると、隆一は、死んだはずの優がもどって来てくれたように思 うこともあった。
 お互いのなかで気持ちが通い始めることの素晴らしさを、久しぶりに隆一は感じ ていた。今までの普通高校へのこだわりは消えたわけではなかったが、それに代わる 喜びがここにもあるのだということを隆一は見つけたことが何よりもうれしかった。
 夏休み前には、隆一と孝は、親友のように親しくなっていた。クーラーの効いた 病室の窓から見る夏の日差しの眩しさは、孝にとって手の届かない希望に似ていた。
「先生。一度、僕も江ノ島の海で泳いでみたいな…」
 孝は、青々とした空のずっと向こうに湧き始めた積乱雲を見ながらそう言った。
「タカシだって、退院したら行けるさ。そうだ、そしたら、先生と一緒に山にも行 こう。先生は学生の頃、山岳部にいたことがあるんだ。北アルプスや南アルプスにも 登ったんだぞ。山の上にはね、涼しい風が吹いてくるんだ。地上が雲で覆われて、何 だか天国でも歩いているみたいな感じだったよ。途中で汲む渓流の水がおいしくてね 。風のなかで歩き続けるときの空気の旨さと水の旨さは格別だよ」
「いいなあ、先生は。僕も進学して、大学に行っていろんな事をしたいなぁ」
 孝の目が遠くを見つめている。
「孝もきっと行けるさ。そのために先生とこうして頑張っているんじゃないか」
 隆一がこう言っているうちに、孝はベッドのうえで居眠りを始める。
 隆一は孝を揺り起こそうとするが、眠っている孝の顔を見ると、そのままにして おいてやりたくて、用意してきたアラビアンナイトの本をひとり読み始める。
「先生。お話の先はどうなったの?」
 眠っていたはずの孝は、目を暝ったまま、擦れた声で催促する。「もう、二十四 話になったよ。シナの仕立て屋夫婦とせむし男の話だ」そう言って、隆一は話を読み 始める。すーと静かな寝息が聞こえてきた。孝は話の途中でまた眠ってしまったよう だった。

 孝の定期検診の結果が出た。ここの所すっかり調子が良くなったかに見えた孝の 病状は、外見の明るさに反して、ますます悪化していた。
 微熱が続いたり、突然貧血になったりする症状がそれを示していた。歯磨きの後 には必ず、阜sから出血し、いつまでも止まらなかった。
 その結果を知らされた隆一は、せっかくここのところ孝のおかげで得た平安な気 持ちも、再び重苦しいものに変っていくのを感じた。自分には結局こういう結末が待 っているのだと思った。優を無くしたときから彼のなかに傷として残っていた部分が ちくちくと痛みだした。
 自分の行く手にはどうしていつもいつもこんなことばかりが待っているのだろう 。自分は他の人たちにとって疫病神のような存在なのではないか。妻にとっても、優 にとっても、功にとっても、そしてこの孝にとっても。
 そんな風に考えることはたまらなく辛かった。一時期は孝の病気すらも忘れかけ ていた隆一は、それが子供にとっての血液の癌のようなもので、出血しやすくなった り、微熱が続いたり、貧血が起きたりする症状が、急性型リンパ性のものの末期的な 症状と一致すると言われたときには、床の上がくらくらするように揺れるのを感じた 。
 母親との面談日は隆一にとって一番辛い仕事のひとつだった。
孝の母親はまだ若く、隆一の妻よりも年下のように彼には見えた。「孝くんですが 、最近は僕にもすっかりなついてくれて、工作の時間なんかには、一緒に病室の窓か ら紙飛行機を飛ばして、婦長さんに怒られたこともあるくらいなんですよ」
 隆一がそう言うと、孝の母親はうれしそうに微笑んだ。
「本当に、先生にはお世話になります。面会の時間には毎日、先生のことばかり話 すんですよ。一時期は不機嫌で、何かというと『うるせーな』としか言わなかったの ですが、先生の話では、それも症状だとかで…」
 病気の話になって、急に母親の声のトーンが落ちた。隆一も、この話をするのが とても辛かった。
「今の医学は進んでいます。きっと…」
 そう言ってはみたものの、母親の重い気持ちを慰める力がないのは分かり切って いた。
「それが、先生。もう孝は…」
 そう言ったきり声を詰まらせて、母親は涙をしきりに流し始めた。
 その時の顔の哀れさが、ちょうど五年前に優が肝臓の病気で、もって一年だろう と宣告されたときの妻とそっくりだった。
 何か手立てさえあれば、どんなことも辞さない母親としての覚悟のようなものが 感じられ、近くにいただけで自分のようなものは拭き飛んでしまうような気がした。

「もし、私の肝臓が取り替えて上げることが出来たら…」
 あの時もそうだった。
 奇病にもはいる肝臓の病気を医師から聞かされて驚いた妻は、退院の時に、イン キュベーターの中の管だらけの優を見てそう呟きながら悔しそうに涙を流していた。
 あの時、自分は妻の気持ちと全く同じ地点にいただろうか。今更ながらそんなこ とが思い出された。
「私は毎日、優の顔を見に病院に行ってるのに、あなたは会社の帰りに飲みに行く なんて一体どういう神経をしているの!」
 あの時、隆一は確かに申し訳ない気持ちで帰ってきた。しかし、帰り着くやいな や、妻からそんな言葉が飛んできてみると、自分のなかにあった鬱積した遣り切れな さがむくむくと頭をもたげた。
「俺だってなぁ、今まで仕事も早く切り上げて病院に何度行ったと思っているんだ 。たまに一度付き合っただけで、どうしてそんなことを言われなければならないんだ 。そもそもあんな子を生んだおまえが悪いんじゃないか!」
 咄嗟に口が滑ったと思った。
 次の瞬間には氷り着いたような妻の顔が目の前にあった。
「あなたは、優が可愛くないの! 私たち二人の子供なのよ!」
 あれ以来、妻との関係は冷たく冷めたままだった。
 そして、優が静かに一度も退院する事無く死んでいったとき、自分はその時のこ とをどれほど悔いたことだろう。
 そして、そのまま妻は精神を病んでしまった。何だか取り返しのつかないことの 責任が全て自分にあるような気がした。

「以前、僕は子供を死なせてしまったことがあります」
 唐突に隆一がそう言うと、孝の母親の顔がはっとしたように彼の方を見た。
「二人目の子供でしたが、生れつき内臓に障害を持っていました。生まれて間もな く医師にその事を伝えられ、手立ては尽くすが長くは持たないだろうと言われました 。僕と妻はその子に優という名をつけました。その後僕たちは病院に一番近いアパー トを借りてそこに引っ越して、毎日、病院通いが続きました。それでも子供は僕らの ために頑張ってくれました。インキュベーターのなかに向って何度優という名を呼ん だでしょう。優は、長くはもたないといわれながらも、それから一年の間生き続けま した。でも、僕はその間に一度だけ、罪を犯してしまった。会社の帰りに一度だけ、 同僚に誘われて飲みに行ってしまったのです。家に帰って妻と喧嘩になりました。優 のことで頭がいっぱいだったのでしょう。僕も毎日その事を考えると辛かった。そこ から逃げだしたいニいう気持ちがあったんでしょうね。でも、妻は違った。逃げだし たいとは考えていなかったのです。彼女は、優が助かることを信じていた。医者から 、長くはないと宣告されても、決して諦めなかった…。僕は、どうだったでしょう。 僕のどこかに、きっと子供はもう助からないんだ。だから、仕方がないんだという諦 めがあったのだと思います。僕は、妻にたった一度の息抜きを責められて、つい興奮 してしまいました。そして、自分の心の底に潜んでいた気持ちが言葉になって出てし まった。優は間もなく死んでしまい、妻は深く傷つきました。僕はあの時の自分と妻 の、優という一つの小さな生命に対する思いがどれほど違っていたのかを今更思い知 らされています」
 隆一が、そこで言葉を切ると、母親もじっと言葉を飲み込んでいる様子だった。
「どうして、こんな話ししてしまったんでしょうね…」
「先生、ありがとうございます。今の先生の話を聞いて、自分だけがこんな思いを しているんだと思っていたのがすっかり消えました。今の先生の話にあったように、 私も奥様の気持ちと同じなのです。その事を危うく忘れかけていました。末期だとい われて、どうしようもない虚しさに敗けそうになっていました。でも、自分はどうな ってもいいから、私は孝の未来を信じてあげなくちゃなりません。そうしなければ、 孝の未来を信じてくれる人は…」
 母親は言い淀んだ。
「僕も信じますよ」
 隆一は自然に母親の前に手を差し出した。母親もじっと彼の手を見つめながら、 しっかりとその手を握り締めた。

 孝は、次第にベッドに寝たきりの状態が多くなっていった。隆一の読むアラビア ンナイトの話も、もう三十夜以降は、孝も聞けないような状態が続いた。
 そんな時、同僚の一人が隆一にもらしたのが次のような話だった。「山本さん。 ここはね、病院の付属で、他の養護学校と違う所が沢山あります。冷暖房は完備して いるし、空き時間も昼休みもある。他の養護学校は空き時間無しで、昼も一緒に給食 を食べるんですよ。でもね、ここにはここの辛さもあります。それは、ほとんどマン ツーマンで面倒をみた生徒と、卒業という形じゃなく永遠の別れをしなければならな いということがあることなんです。僕も一昨年持った生徒が、病気で死んでいきまし た。とても辛いときが続きました。やっと立直ることが出来ましたが、ここにいると 何度もそんな辛さがありますよ」
 隆一はその同僚の話があまりに切実で、自分の今の立場に近いのに驚いた。そう こうするうちに、野外宿泊学習が近付いた。隆一は、孝は当然参加できないものとし て、会議では報告したし、会議でもそれは当然のこととして受け入れられた。
 ところが、翌日、孝の母親から、野外宿泊学習に是非母親同伴で連れて行ってほ しいという連絡が入った。
 最初隆一は耳を疑った。母親は疲れているのかもしれないと思った。しかし、母 親は本気だった。翌日会う約束をして、孝は電話を切った。
 翌日会っても母親の意志は変わっていなかった。以前会ったときの印象が強かっ たためか、母親の気丈な顔つきに、隆一は少し驚いていた。その日はとりあえず、担 当の医師に状態を確認してからということで、話は終わりにした。
 担当の医師は、孝の病状は宿泊などに堪えられるはずがないことを明言しただけ でなく、宿泊中に命を落とすこともありうるとさえ言った。
 その頃から、隆一の周りでは、父母の動きが活発になっていた。孝の母親は、隆 一の家に電話を掛け、何度も担任として、孝を野外宿泊学習に連れていってくれるよ うに校長や担当医師に頼んでくれと言われた。
 しかし、担当医師の話を聞いている以上それを無視する訳にもいかず、隆一は学 校側と母親側との板挟みになる形になった。
「先生、私は孝に一度だけでもいいから、野外で、皆と一緒に食事を作ったり、キ ャンプファイヤーをやったりする思い出を作って上げたいんです」
 母親にそんな風に言われると、彼は母親の気持ちも尤もだと思ったし、医師の話 を冷静に考えてみれば、校長が許可しないのも尤もだと思った。
 ある日、保護者の団体が、学校にやってきて、校長室で談判を開いた。隆一も呼 ばれて行ってみると、先頭に立って話しているのは孝の母親だった。他の母親たちの 結束は固かった。同じような子供を抱えている親の気持ちはそう違うものではない。 孝の母親の、一度だけでいいから思い出を作ってやりたいという気持ちが、他の母親 たちを動かしていた。
「校長先生、お願いです。孝くんのお母さんの気持ちを察して、今回を特例として 、母親医師同伴で参加させる方向でどうでしょうか…」
 そう隆一が言った言葉に、父母たちは一時しんとなった。しかし、すぐ後に、少 し激したような校長の言葉が返ってきた。
「山本君。君はそんなことを言って、担当の医師の話を聞いていないとでもセうつ もりかね。もし、孝くんの身の上にもしものことがあったら、君はどう責任を取るつ もりなんだ」
 そう言われると、隆一も困ってしまった。その時だった。
「それでも構いません。それはそれで仕方の無いことだと思いますから…」
 そう孝の母親が言った。
 それまで騒然としていた校長室は、校長はじめ、一同黙ってしまった。
 そして、少し静寂が続いた後、校長が、小さな声で自信がなさそうに言った。
「孝くんのお母さんや皆さんの気持ちは十分に分かりました。担任の山本先生の言 われる気持ちも私は分からない訳ではありません。今日の話を私はもう一度静かに考 えてみたいと思います。担当の医師の石井先生の意見も聞きながら、検討してみるつ もりです」
 その時、校長は明らかに、父母や、孝の母親たちの熱意に動かされかけていた。
 しかし、担当医師は決して、そんな要求にほだされるような人間ではなかった。 彼はすぐにも、校長の申し出に対して、非常識だという返事をした。こうして、孝の 母親と父母たちの微かな望みも絶たれた形になった。
 それから一月後、隆一は、複雑な心境を抱えたまま、他の生徒たちと野外教育セ ンターのある半原に向った。隆一達が出掛けた後、孝は病室を移された。担当医は、 点滴の準備をした部屋に孝を入れた。母親は、その間中、じっと祈るような気持ちで 黙っていた。孝の父親も仕事を休んで、待機していた。
野外センターのキャンプファィヤーが、赤々と炎を燃やす頃、孝の心電図は、直線 に変わっていた。
 あっけない孝の命の日の終わりに、孝の父も母も暫らく言葉を忘れていた。
 病院から入った連絡に、隆一は何も返事ができなかった。その日連絡は一部の者 だけにだけ伝えられた。
 野外センターから帰った後、孝の葬儀が自宅で行なわれた。孝はやっと家に帰る ことが出来た。あれほど病院を出たがっていた孝だったのに、出ることが出来たのが 、自分の命が失われた後だというのは何という皮肉なことだろう。
 隆一は孝の写真を見ても、まだそれが本当のこととは思えなかった。かつて同僚 が言っていた、「ここにいると誰もが一度はこの辛さを経験するんだ」という言葉が 耳に響いていた。
 間もなく学校に孝の両親が挨拶にやってきた。そこには隆一も呼ばれて対応した 。
「この度は誠に痛み入ります」と言葉少なな校長の前で、母親はこう言った。
「担当医の先生のおっしゃったとおりでした。確かに私達は非常識だったかも知れ ません」
 そこで母親は一度言葉を切った。
「でも、それでも私達は、孝を野外宿泊学習に行かせたかった。病院から一度でも 生きているうちに出してあげたかった…」
 そう言って目にいっぱい涙をためていた。誰にも言葉がなかった。父親は、彼女 の肩にそっと手を置いていた。どうしたらよかったのか、隆一にもそれは分からない 。でも、母親の今の気持ちは痛いほど分かるような気がした。

家に帰ると、妻の裕子が何も語らないながらも、隆一に気遣っているのが分かった 。彼女はまだ通院を続け、安定剤を飲み続けている。しかし、この頃は、夜中に起き て優の名を呼びながら探し続けるというようなことは無くなっていた。
 隆一は夜中にじっと目を暝っていても、寝付くことが出来ない。孝の顔がちらち ら脳裏を掠めていく。それが妙に死んだ優に似ているのだった。
 二時を過ぎても三時になっても眠れずに、何時の間にか夜が明けるといった日が 続いた。孝のアラビアンナイトに聞き入っているときの顔が思い出される。初めて会 った頃の不機嫌だった顔や、自分は死んじゃうんでしょと言ったときの思いつめた顔 。どれもが孝の顔だった。
 そういえば、アラビアンナイトの話は一体何処まで聞かせてあげたっけ。不意に 思い出した隆一は、布団を抜け出して、書斎に行った。ボロボロになった本の表紙を 電気も点けずに見つめていると不意に後に人の気配がした。
 振り返ると妻が立っていた。妻の目は、薄暗い中でもはっきりと見えた。その目 が言葉にならないまま、沢山のことを言いたげだった。暫くして、妻は寝室に戻って 行った。
 書斎に一人取り残された隆一は、やっと自分がある地点にたどり着いたのが分か った。
 妻はそれから間もなく通院しなくてもほんの少しの安定剤だけで、なんとか過ご すことが出来るようになり、やがて、安定剤を服むこともなくなった。
 冬も終わる三月頃だった。久しぶりの日曜日に家のなかで、子供と過ごしていた 隆一は、アパートのベランダに並べたプランターのパセリが大きくなり始めているの に気付いた。
「パセリが大きくなってきたな」
 誰にともなくそう言う隆一に、
「もうすぐ一年が経つのね。あなたが転勤してから」
妻が、昼食の準備の手を休めてこちらを向いていた。
 その明るい顔つきに、隆一ヘ優が死ぬ以前の健康だった頃の彼女を見るようで新 鮮な感じがした。
 子供の功はもう小学校三年になる。この頃は時々友達もつれてくるようになった 。
「功、弟の優を覚えているか」
 隆一は何気なくそう聞いた。
「覚えているよ。僕が小さな時に病院で死んじゃったんでしょ?」やはり功は覚え ていてくれたのだ。何だかそんなことが無性にうれしかった。
「優はいろんな所にいるよ」功が突然そんなことを言う。
「えっ?」妻の裕子も、じっと功を見つめる。
「理科で習ったんだ。理科室で飼っていた兎が死んだときに、先生が言ったんだ。 小さな小さな単位があって、土に埋められるたり焼かれたりすると長い間にそれらに 分解されて、いろんな所を漂っているんだって。だから魂ってあるんだって。目に見 えるものは必ずそうして小さな見えない単位になっても、きっと存在しているんだっ て」
 功の言い方は飛躍があってうまく説明をしているわけではなかったが、何だかそ れでも、とても理にかなった事のように隆一にも裕子にも聞こえた。
 ベランダ越しに見える遠くの山の景色のなかに、きっと優も孝も解け込んでいる のに違いない。そう考えると隆一は、ふっと今まで強ばっていた肩の力が抜けていく ようでとても楽になったように感じた。




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