小説「メロディー」山本 洋

 午前一時。店はそれでも若い客が、昼間と同じように雑誌をぱらぱらめくったり 、カップ麺の銘柄を選んだりしていた。富田千尋は店の角に設置された、防犯用の反 射鏡にちらちら目をやりながらレジに品物を出す客におつりを渡していた。
 この頃、この時間になると、いつも買い物をして帰っていく若い女性がいた。彼 女は、今日も店の隅の雑誌をぱらぱらとめくった後ドリンクの入ったガラス戸を見つ めていた。ウーロン茶かなと思って見ていると、やはり昨日と同じウーロン茶二本と カップラーメン二つを手に取って、こちらへ近づいてくる。
 千尋の心臓の鼓動が早くなり、そう思っている間に、彼女は品物を台の上に並べ て待っている。
二十代だろうか、均整のとれた体つきをしている。やや茶色がかった髪の中には、 こじんまり整った顔が収まっている。目元は、少し疲れが見えるものの、あくまでも 優しく穏やかだった。
 この時間にコンビニに来るのは、どこかでアルバイトでもしてきた帰りだろうか。きっとそうなのに違いない。ハーフコートの襟を立ててガラス戸の外に出ていく女 性の後ろ姿は、この時間にしては無防備なミニスカートだった。
 彼女が去った後、千尋は軽く溜息をついて、仕事を続けた。
 千尋が大学を中退して、この店でアルバイトとして働きだしてもう三年になる。 とりあえずと思っていたのだが、そのままこの店に居着いてしまった感じだった。彼 の住むアパートのそばでもあり、夜の番になると給料もそう悪くはないのが魅力だっ た。
 彼は、コンビニでアルバイトをしながら、ミュージシャンを目指していた。千尋 の弾くマーチンのギターの音は、よく聞けば、通行人も振り返るほどの音が出たし、 指もまあまあ動いた。ギターは、学生時代、スナックで皿洗いの仕事を二ヶ月間やっ て稼いだ金をはたいて買った。
 新宿の路地で、ストリートシンガーをしていた学生時代に、マイナーなレーベー ルのスカウトも受けたことがある。彼の声量のある声は、細い路地裏で、響きすぎる ほど響いたからだ。彼の作る詩はその音楽とともに不思議な魅力があった。
 どこかで聞いたことがあるようで、どこにも見あたらない質の音楽だった。テン ポはそれほど速くなく、聞けば、なんだか南の島でのんびりしているような気分にな れる。マイナーなレーベルでの話は進みはしたのだが、スタジオ録音の寸前で潰れて しまった。音楽の世界はこんなものなのかなと彼はその時思った。
「千尋、気になってるみたいじゃん、あの娘のこと」コンビニで一緒にやっている 陽介が言う。
「まあな」千尋は軽く受け流し、仕事を続ける。
 午前三時。店は一時閉まり、翌朝の早番は六時からになる。わずかの間だけ、大 通りにあるその店は、明々と灯っていた灯りを消し町は街灯だけになる。
 店から歩いて、十五分ほどのところに千尋のアパートはあった。 敷きっぱなし になっている布団は少し湿気ていて冷たく、そのまますぐには眠れそうになかった。 家賃の安いのだけが取り柄の、ぼろアパートの二階の部屋は、隙間風が入り、隣や下 の音も筒抜けでギターを弾きたくても、誰もが出払った昼間にしか弾けない環境だっ た。
 冷蔵庫から、ウーロン茶のペットボトルを出してラッパ飲みした後、布団に横に なる。
 寒い一月の風がアパートを揺るがし、ビューという音を立てる。彼女の顔を思い 出す。端正な優しい顔つきが、彼の頭の中に住み始めてからどれくらい経つだろう。
 それは突然閃光のように訪れた。レジで金額を打ち出した、千尋の目の中に、じ っとこちらを見つめる彼女の視線があった。その時、彼女は確かに千尋の目のなかの 何かを探していたはずだ。千尋はその意図に気づかずに見過ごした後、彼女の面影を 脳裏に引きずるようになった。こんな形の恋もあるのかもしれないなと、布団にくる まりながら思う。目をそっと閉じると、真っ暗な中に透明な幾何学模様が浮かんでは 落ちていく。

          #

「ヒロちゃんOK?」
 照明のスタッフに黙って千尋が頷くと、ライブハウスのスポットライトが一斉に 点灯した。赤や青や黄色のカクテルライトが眩しい。この光の中に立つと、なんだか 今までの自分が自分でなくなっていくような陶酔感がある。
 千尋は椅子に座って、マーチンのギターを弾き始める。鈴のような音が響きわた り、観客が息をひそめるのが分かる。
 千尋がいつもオープニングナンバーに歌う歌に、若い女性客たちが一斉ノ拍手を する。その音で、千尋のその日の調子は決まる。決して多くはない固定客の中には、 これまで千尋が知り合ってきた人たちから口コミで広がった客が殆どだった。だから 、客たちはみんな顔見知りのようなもので、乗りやすい。狭いライブハウスは、客と 一体になってバイブレーションを体感できる唯一の場所だ。
 千尋の歌が二曲目、三曲目と続いていく。その間、あまり喋るのが得意でない千 尋は、ぎこちなく、ギターのチューニングをしながら、昨日コンビニであった出来事 や、町で見たちょっと気に入った風景。道で拾った面白い形の石のことなどを話す。
―今日の客の反応はまあまあだな―
 千尋は、カクテルライトに赤く染まった顔を思い切りマイクにぶつけるようにし て歌う。そして歌い続けながら、いつもと違う目が千尋を見つめているのを感じてい た。
 コンサートが終わると、千尋はまたもとの顔に戻って、客席に座り、来てくれた 仲間と一緒に酒を飲む。客席には、陽介が珍しく顔を出していた。
「あれ? 今日、店は」
「十時交代にしてきたから」
「珍しいね、来てくれるなんて」
「彼女来てたんだぜ」陽介が口元に笑みを隠すようにして言う。
 千尋は信じられないと言った顔つきで、黙ったまま、陽介を見つめる。
「おまえが誘ったのか?」
「俺じゃない」
  彼女はどうやら、千尋がライブで歌っていることを前から知っていたらしい。
 初めて彼女が店に訪れたとき、彼の目をのぞき込むようにしていたあの顔つき。 あれはきっと、彼が歌っていることを知っているという顔だったのだろう。
 どうしてそんなことに気づかなかったのだろう。彼女はもしかしたら、自分の純 粋なファンかもしれない。千尋はそれだけでどきどきした。

 次に彼女が、コンビニに訪れたのはやはり午前一時だった。彼女は、ウーロン茶 とカップ焼きそばを二つずつ持って、レジの前に立った。千尋は陽介の薄笑いを無視 しながら、もう躊躇わなかった。「この前、僕のライブ見に来てくれたんだって」
「ええ」
「前から知ってたの?」
「ピアで写真出てたから、すぐに分かったわ。私、ライブ好きだから。クロコダイ ル、前にもよく行ってたし」
「誰の聴くの?」
「原田智宏」
「彼もソロだね」
「バンドもいいけど、やっぱりマーチンならソロが一番だわ」
「ありがとう。君はディラン好き?」
「もちろんよ」
 彼女は、さわやかな笑みを浮かべて、タータンチェックのマフラーを首に巻き付 け、出て行った。千尋は、じっと彼女が闇の中に消えていくのを見送っていた。智加 と暮らした日々が、夏の風のように彼の脳裏に蘇った。

 千尋は、智加と学生の頃知り合った。ジェシイ・フラーという老ミュージシャン のライブに行った帰りだった。フラーの音楽は、その時の観客の心に沁みた。今にも 死にそうな彼の姿からは想像もできないほどの味わい深い声。そして、哀愁のこもっ たギターの音色が、見事にマッチしていた。演奏が終わった時、フラーの何かが確実 に客を捉えていた。誰も席を立とうとしなかった。
 老ミュージシャンは、英語で、自分の演奏が終わったことを告げ、ステージを去 っていった。拍手も起こらない感動というものがあることを、千尋も智加もこの時初 めて知った。帰りがけに、この場にいる人たちと別れ難く思っている智加に声を掛け たのは、千尋の方だった。
「少し話さない?」
「ええ、私もこのまま帰りたくないから」
 駅の近くにあった小さな喫茶店で、二人はいつまでも、フラーについて語り合っ た。智加のポニーテイルの髪が、話す度に微かに揺れていた。
 翌年になって、フラーが亡くなったというニュースを知る頃には、二人はもう、 一緒に暮らしていた。千尋は、文学部の四年で、智加も美大の四年生だった。そのこ ろは千尋もライブハウスで歌い始めていて、殆ど学校には行かず、家で作曲と作詞ば かりしていた。智加も、陶芸を専攻していたので、二人は創作のことで、議論をする ことが多かった。二人の共同生活は、新鮮でこんな生活がいつまでも続けばいいと願 った。
 千尋はそれまで、一人で歌うことが多かったのだが、ライブの度に他のバンドの パワーに圧倒され続けた。それで、彼も、新しいメンバーと組むようになった。
 ドラムスとリードギター、キーボード、ベースの他にバンドには珍しく、バイオ リンも入れてみた。千尋の音楽には、バイオリンがよく似合った。バンドのメンバー たちは、毎日メンバーの誰かのアパートに集まって、音楽の話をしたり、食事を共に したり酒を飲んだりした。彼らの生活は、いつしか共同体のようになっていった。  自然とみんなが、千尋のアパートの近くに集まって住むようになり、音楽にも広がり が出て、四年生の夏には知人に呼ばれて、地方のホールに出かけて演奏することもあ った。
 音楽だけではもちろん食べていけるほどの収入にはならなかったから、他の有名 なアーチストのコンサート会場のステージの建設や、PA装置の設定などの仕事をし て、生活費を稼いだ。かなりハードな仕事だったが、仲間がいれば、楽しかった。そ んな生活が続くうちに、千尋は大学にも行かなくなり、卒業を間近に控えて中途退学 をした。こんな生活の中で、大学を卒業するのは、一つの逃げ道を作るような気がし たからだった。
 智加は卒業して、陶芸の道を歩き始めた。千尋のコンサート活動は、月に一度と かなり頻繁になり、智加も自分の陶芸作品を原宿のフリーマーケットで売ったりして 稼いだ。
 夏にはバンド仲間と一緒に三宅島に行って過ごした。釣りをしたり泳いだりした 後は、みんなでテントの中で寝た。金は殆どかからなかった。青い空に浮かんだ立体 感のある積乱雲が輝いていた。石垣の脇ではカンナの赤い花が燃えているように光に 映えていた。
 あの頃は楽しかったなと思う。貧乏だったが、みんなで力を合わせて生きていた 実感があった。智加と別れてから、みんなはバラバラになった。千尋は、気分を変え るために引っ越しをし、バンドも解散してソロに戻った。
 また一から出直すつもりで始めたつもりが、気持ちのどこかで、智加のことを引 きずっているような気がしてならない。気付くと寂しい自分が膝を抱えていた。溜息 がいつも白く見えた。あのとき、なぜ自分は、智加を守れなかったのだろう。智加の 気持ちが自分から離れかけているのにも気付いていた。
 それは、智加が沖縄に土を求めて旅したときだった。千尋は、ライブハウスでの スケジュールと合わなくて、智加と一緒に行くことができなかった。四日後、コンサ ートが終わって、読谷村の知人のところに行った。智加の友人の香奈の実家がそこに あったのだが、香奈は、まだ東京にいて帰っていなかった。千尋が行って、礼を言お うとすると、実家の母親が、申し訳なさそうな顔をして、昨日出て行ったのだという ことだった。予定では、ずっと滞在することになっていたのに、突然なにも理由を言 わずに、出ていったらしかった。その時の智加の顔つきからすると、どうもただごと ではない様子だったと香奈の母親は言った。
 それから三日後、那覇の市場で土色に褪せた顔で、鮮やかな色の魚が並ぶのをじ っと見つめている智加を見つけた。智加は千尋を見つけると、はっと我に返ったよう な顔つきになり、すぐに逃げ出した。全力疾走で智加に追いつき、やっとの事で智加 を留めて、なぜ逃げたのかと問い質そうとすると、突然泣き出した。
 その日は那覇の民宿に素泊まりすることにして、じっくりと彼女の話を聞いてみ るた。どうやら彼女は、強姦されたらしかった。相手は、基地のアメリカ人だった。
 千尋は翌日嘉手納基地に行き、その外国人の名前を聞き出す手がかりを探そうと したが、智加はそれを堅く拒んだ。それ以上に辛さに耐えられない様子だった。
 智加は、村の外れで、陶芸によく合う土を探しているところを白昼堂々と犯され た。その時、近くには誰も人がいなかった。白人らしいその大きな男は、刺すような 目つきをしていた。あの目つきが智加の頭から離れない。抵抗すれば殺されていただ ろう。彼女は暴力で犯されただけでなく、その裏に潜む死の恐怖からも蹂躙されたの だった。
 まもなく沖縄を去り、東京に帰っても、千尋の中で燻っている何かが、彼を変え 、彼女を傷つけ続けた。千尋は、今は智加に優しくすることが大切なのだと分かって いても、どうしても悔しさをぬぐい去ることができなかった。そして、すぐに沈黙し てしまう。智加を慰めることが千尋にはできなかった。智加の心は次第に千尋から離 れていった。千尋は今でもそのことを考えると、偶然の災厄に翻弄されたような気が してならない。
 あの広大な基地の中のどこかで、大きな刺すような目をしたアメリカ人が、のう のうと何もなかったような顔をして生きている。そう考えるだけで、頭の中が真っ赤 に燃え上がった。
 食事をしているときも、本を読んでいるときも、智加は、千尋の冷たいガラス玉 のような目を感じた。もうこれ以上一緒にいられないと思った。千尋のバンドのバイ オリン弾きの俊幸は、智加をよく理解してくれていた。
 智加はたまらない寂しさを俊幸に打ち明けた。
 智加と俊幸の気持ちの繋がりを薄々と感じていた千尋は、仕事で外出中に俊幸の アパートに智加が頻繁に行っているのではないかと疑った。そして、ある時、智加を 尾行して、俊幸のアパートに入っていく彼女を見てしまったのだった。
 その時の千尋の目の中には、俊幸に姿を変えた、鋭い目つきのアメリカ兵がいた。千尋は頭の中がカッとなり、何がなんだか分からなくなって、アパートのドアを開 き、俊幸に飛びかかっていた。
 驚いた俊幸が、倒れかかったところを千尋は狂気のように蹴り上げ続けた。智加 が泣きながら、「やめて!!」と叫んでも、千尋は、ガラスのように目で彼女を見た きり、俊幸を攻撃し続けた。千尋にとってもはや俊幸は俊幸ではなく、あのアメリカ 兵だったのだ。 大きな体の千尋に腹部を何度も何度も蹴り上げられて、気を失いか けた俊幸に覆い被さってかばおうとした智加に、千尋は激した顔で「今度は、こいつ か!!」と叫んだ。
「こんどは… こいつか…? それどういう意味?」智加が、千尋を見つめる。千 尋はそれまでの動きをぴたと止めて、智加の言葉に自分の言ってしまった言葉を重ね てみる。
「俊幸には、いろいろ悩みを聞いてもらっていただけだったのに。ひどい、そんな 風に思っていたのね。あなたがあれ以来ずっと私を見ていた目の中に宿っていたもの が何なのかがやっと分かったわ」 これで全てがお終いだと思った。今まで、智加と 二人で築き上げてきたもの、仲間たちと暮らしてきた生活、それらの全てが、千尋の 目の前で崩れ落ちていった。
 悪いのは智加ではなかったはずだ。智加はむしろ一番の犠牲者だったのだ。それ なのに、どうして自分は彼女に優しくできなかったのだろう。今更こんなことが分か っても失われてしまったものは、もう二度と戻ることはない。

 午前一時になった。いつものように彼女がドアを開けてやってきた。千尋は窓際 にある、雑誌コーナーの雑誌を整理していた。コンビニの客は深夜でも、外から見え る明るい雑誌コーナーで立ち読みする人を見て安心して入ってくる。彼女も初めはそ の一人に違いなかった。
「やあ、この前はどうも。いつも遅いね。仕事?」
「バイトよ。本の校正やってるの。帰りにここに寄って人のいるのを確認して帰ら ないと、頭の中が活字だらけになっちゃいそう」
「大変なんだろうね」
「あなたも大変ね。何時までやってるの、いつも?」
「だいたい、三時交替。家に帰って寝て、また起きて、また寝るだけの生活。だか ら、月一回歌うのがすっごく気持ちいい」
「作詞はいつやってるの?」
「気が向いたとき、歩いてるときとか、レジ打ってるときとかに、頭に浮かんだこ と、メモしてる」
「なるほど。それだけであんな素敵な詩ができるなんて、あなた天才かもね」
 千尋が少し照れてレジに戻ると、若い大きな男が、カンズメとうどんを抱えて、 待っていた。千尋はその男の顔を見てはっとした。 鼻の脇に大きなほくろのあるそ の顔は、何処かで会ったことのある顔だったが、一体何処で会ったのか、誰なのか見 当がつかなかった。レジスターを打つとき、最後に必ず、その客の年齢を予想をつけ て打つことになっている。千尋はその男を三十代後半と打った。 彼女はカンズメと うどんの男が出て行った後、何故か慌ててストッキングと歯ブラシを買った。帰りが けに千尋が、「今度何処かで会おうか」と声を掛けると、「そうね」と言葉を濁すよ うに立ち去って行った。その時のさりげない様子が、彼を軽くなでるように傷つけ、 いっそう彼の思いをかき立てた。
 彼女が、男と同棲しているらしいという噂を耳に入れたのは、陽介だった。陽介 は、休日になるとバイク仲間と、バイクを乗り回している。暴走族とは一線を画して いるらしいが、どう違うのかは千尋にも分からなかった。陽介は、そのバイク仲間の 中に、偶然彼女の仕事先に行っている女の子の知り合いがいて、その子の情報からそ れが分かったらしかった。彼女の仕事は、本の校正ではなく、風俗関係だった。しか し、それが事実なのか、単なる噂なのかははっきりと分からなかった。千尋は、それ を聞いて、彼女がこの前誘ったときにさらりと千尋を遠ざけた理由が分かったような 気がした。 それ以来、彼の中に住み始めた彼女は次第に形を変えていった。それで も彼はそんな風に形を変えていく彼女が自分の中で息づいているようでとても気に入 っていた。
 彼女の後を付けようと思い立ったのは、それからまもなくのことだった。深夜女 性の後を付けるという行為がとても危険な何かを孕んでいることは千尋にもよく分っ ていた。うっかりすると、彼女とは二度と会えなくなるかもしれない。そんなことを 考えれば考えるほど、ますます尾行ということが、特殊な意味を帯びてくるようで、 ぞくぞくするのだった。
 彼女がいつものように午前一時にやってくる。そして、何か買い物を終えて、帰 っていく。その後、彼は陽介に店を一時任せて、彼女の後を付けるのだ。
 彼女は暗い夜道を、コンビニの白いビニール袋を提げて帰っていく。後ろ姿を見 ていると、彼女の頼りない姿が、張り付いているようで、守ってやりたくなる。思わ ず後ろから追いついて、抱きしめてみたら、彼女はどう反応するだろうか。
 そんなことを思いながら、ついていく。こんな夜に、後ろから男が尾行している とは夢にも思っていない様子の、彼女の背中は無防備だった。薬屋の角を曲がり、路 地を入って行くところを見ると彼女の住むところはこの近くらしい。
 そう察 した千尋は、彼女に気付かれないように、電話ボックスの陰で息を潜める。その時、 ガラス越しに、彼女が後ろを振り返った後、走りだすのを見たのだった。咄嗟に千尋 は、彼女の姿を見失うまいと思った。そして、自然に気持ちが真剣になっていった。 走っていく彼女の足音。彼女は自分だということに気付いたのか、それとも、痴漢と 間違えているのか。
―もう時間がないんだ―
 自分の歌声が聞こえてくる。
―もう時間がないんだ―
 その自分の歌声に追い立てられるように彼は路地を回り走った。 その時千尋の 頭の中には、鋭い目つきをしたアメリカ兵の姿が、自分の姿にオーバーラップして写 っていた。
 疾走する千尋に目の先には、転びそうになりながら、必死に走っている彼女の姿 が見える。恐怖のためか、悲鳴をあげることすら忘れて、白い息を吐いている姿は、 牝鹿のようだった。
 路地の脇に放ってあった缶ジュースの空缶に躓いて、彼女が転んだとき、千尋は 自分が深追いし過ぎたことに気付いた。それでも彼女は声をあげようとしなかった。
 千尋の体の中で滾っていた血が、走るのをやめた途端、体の中を逆流していた。 彼女と千尋との距離は、もう五メートルも離れていなかった。彼女は自分の顔を確認 したのだろうか。咄嗟にそんな考えが千尋の頭の中をよぎった。そして次の瞬間、彼 は、静かにこちらを見る彼女の方に向かって、ゆっくりと歩き出した。途中、彼女が はっとするのを感じた千尋は、大きな声で、「ごめん、驚かしちゃった?」と言いな がら、ポケットから、今度のコンサートのチケットを取り出した。「これ渡そうと思 って…。すぐに声掛ければよかったんだけど、急いでたみたいだから」そう言って、 彼女に近づくと、いつもの彼女とは違う、恐れの感情が浮き彫りになったような彼女 の表情が見えた。もう、修復できないかもしれない。彼は、そう思いながら、あくま でも顔つきは穏やかに、彼女に話し掛け続けた。
 彼女の表情はあくまでも硬いまま、「なぜ?」という、短い言葉だけが、彼の気 持ちの中に食い込んでくる。
「なぜ、私を尾行したりしたの?」
 もう弁解は通じないと思った。
「よく分からないんだ。あの後、永久に君を見失ってしまいそうで怖かったんだ」
「そんなことしなくても…」
彼女はそれだけ言うと、顔をついと背けてしまった。
 アパートに戻った千尋は、それまでの自分の行為が全て夢のように思えてしかた がなかった。もしかしたら、今までのことは夢なのではないだろうか。そうも思って みたが、午前二時の冷たく冷えたアパートの中の空気が取り返しのつかない現実だっ た。
 次のライブハウスでのステージの日、やはり彼女は来なかった。この日はいつに なく客の入りが悪かった。声もあまり出ずに、気分は最悪だった。クロコダイルのオ ーナーから、入場料の三割と決められたギャラを受け取るとき、オーナーの目が千尋 を見なかったのが気持ちのどこかに引っかかっていた。
 部屋に戻って、酔った腹を紛らすために、カップラーメンにお湯を注ぐ。それは 、彼女がよく買っていったラーメンだった。彼女は今どうしているのだろう。彼女の ことを考えた途端、智加のことが同時に思い出された。
 彼女と暮らしているとき、洗濯物をしていて、ふと思ったことがある。その小さ な靴下の形を見たとき、こんな小さなものを身につけているのかと驚いたことがある 。そのことを思い出すと急に、自分のひどさが大きな波のように自分を襲ってくる。 あんな小さなものにさえ、自分は優しくなることができなかった。たぶんコンビニに 来る彼女も、同じように小さな靴下をはいているのだろう。
 何もかもが最悪だ。彼は思う。自分にはあれ以来、こんなことばかりだ。なんだ か部屋のなかで大声で叫びだしたくなる。
 一週間後、クロコダイルに次のライブの予定を相談に行くと、オーナーはいず、 若いアルバイトらしい従業員が、ぞんざいな言い方で、もう別の人を入れたので、ス テージに空きは無いという。ガッチリした体と、不敵な視線のその男の顔に、人を気 押そうとする不快なものを感じた。
「そんな馬鹿な」と、千尋はその場で小さな声を出してはみたものの、この前のマ スターの、千尋の顔も見ないでギャラを渡す姿が思い出された。
「マスターにそう言えって頼まれたんだ」
 若い男は、がっくりと肩を落とす千尋の姿に少し同情した風に言う。
―何もかもが悪い方向に向かっていく。―
 千尋はそう思った。そんな絶望的な日に限って、気分を紛らすものがない。
 部屋に戻って、冷蔵庫の脇に置いてあったウイスキーのボトルを取り出してみる と、底一センチほどしか入っていないかった。
 部屋に干してあった洗濯物に手が触れて、ロープが切れ、生乾きの衣類が顔の上に掛かったときには、訳のわからない怒りが自分を覆って、思わず投げつけた針金の ハンガーは、部屋の角に当たって千尋の額に跳ね返ってきた。冷たく冷え切った部屋 には、点けたばかりのファンヒーターの音だけがやけに大袈裟に響いている。

 智子が千尋の部屋にやってきたのは、それから間もなくしてからだった。
 二月に入って、寒さもピークを迎えていた。東京では何年ぶりかで雪が降った。              湿度の多い雪は、翌朝凍てついて、歩道を固く覆った。千尋はそんな中を歩いていて、転んで肩を脱臼した。
 あまりいいことがないこの頃、家にばかり籠っていたのでは、精神衛生上良くな いと判断した千尋は、寒い中、近くにある公園まで行こうと考えた。その公園は、日 曜日には多くのアベックが、小さな動物園や、池にあるボートに乗りにやってきたり する憩いの場所だった。
 以前、智加とも行ったことのあるあの公園は、冬にはどんな感じなのだろう。千 尋はそう思いながら、凍り付いた歩道を歩いていた。そして、何もないところで、滑 って転んだ瞬間に、ガードレールのポールに肩を思い切りぶつけたのだった。
 やれやれ、本当にとことんついていない。外に出れば今度は怪我をする。千尋は 、動かなくなった片腕を右手で押さえながら、部屋に帰った。コーヒーでもいれよう と思って湯を沸かしたが、左手が使えないとやはり不便だった。夕方からの仕事には 出られないな。そう思って、陽介に電話を入れた。そして、店に電話をして、早番の 二人のうちのどちらかに、夕方からの時間を頼んで電話を切った。病院にでも行こう かと思っていると、ドアのブザーが鳴った。
 新聞の集金だろうかと咄嗟に思った千尋は、払う金がないことに気付いて、身体 を固くした。
「智子です。桐島智子です」
 ドア越しに声が聞こえたが、一瞬誰だか分からなかった。ドアを開けると、せっ ぱ詰まったような目をした彼女が立っていた。そう言えば名前知らなかったんだな。 そう思ったが、彼女の寒々したその様子に、中へ入るように誘った。
「左腕、どうしたんですか?」智子が、不審そうに見ている。
「いや、大したことないんだ。道、凍ってたから」
 片手で、いれたばかりのコーヒーをカップに注ごうとしている千尋を見て、智子 は、「私がやります」と言って、千尋と代わった。「そう言えば君の名前知らなかっ たんだよね、さっきまで」
 千尋がそう言うと、智子はあらっという顔つきをした。
 千尋は、何故、智子がここへ来たのか、知りたかったが、それを聞くことをなぜ か躊躇っていた。
「私、あの人と喧嘩しちゃって…。家を飛び出して、コンビニに行ったら、もう一 人の人がいて、ここを教えてくれたんです」
 そう言って智子は、走り書きしてある簡単な地図と文字の書かれたメモを見せた。それが、陽介の書いたものであることはすぐに分かった。陽介の言うとおり、彼女 はやはり男と住んでいたのだ。千尋はそう思ったが口にしなかった。
「なぜ店に行ったりしたの?」
「この前、あんな別れ方して、コンサートにも行かなかったから、なんだか悪かっ たかなあって…」
 千尋は黙っていた。智子の方から、何か喋ってくるのを待とうと思ったのだが、 二人は、アパートの狭い部屋に中で、沈黙したままになってしまった。
 智子はまた喧嘩を思い出したのか、畳の上をぼんやり見つめたまま、目を赤くし ている。
 千尋は、また智加の靴下のことを思い出す。ここにも、また小さな足の持ち主が 、泣かされているのだ。そう思うと、胸が締め付けられるような気がした。
「いつから一緒に?」
 そう何気なく言った千尋の言葉の微妙な震えを察したのか、智子は、えっという 顔付きをしている。
「そう、その人とはいつから一緒に住んでいたの?」
 もう一度ゆっくり確認するように言う。
「一年前から…。この頃、ひどいんです。蹴ったり殴ったりして、体に青痣がいく つもできました。なぜそんな風に苛立っているのか分からないから…。私はいつもの 通りに接しているつもりなのに」 そう言いながら、また目には大粒の涙が浮かんで いる。その時、千尋には智子の顔が、智加そっくりに見えたのだった。
 ―あのときの顔だ― 千尋は思った。
 沖縄から帰ってから、智加と千尋は、会話すらまともに交わすことがなくなって いた。そして、俊幸のアパートで、智加を見つけたときの、自分の中にあった怒りが 、どれほど不当なものであったかということが、千尋には、その時に痛いほどよく分 かった。自分は俊幸と同じ立場になっている。いや、俊幸は、千尋のバンド仲間でも あったから、智子の場合はもっと悲惨かもしれない。自分と智子とのそれまでの距離 を考えて見れば、彼女が自分のところにプライベートな問題で、転がり込んできたの は、彼女にとってみれば、藁にもすがる思いなのかもしれなかった。
 俊幸は どうしているのだろう。智子を見ながら、千尋はそんなことを考えた。智子と千尋は 、部屋のステレオで、千尋の新しい曲のデモテープを聴いた。
 今度の曲は、それまでの曲とは大きく違っていた。スローなテンポは同じだった が、レゲエのリズムを入れて、少し曲が軽快になっていた。
「近頃の曲はみんな急いでる。何かが来る前に早く早くって感じだから、僕みたい なのがいてもいいと思うんだ」
「今度のこれ、素敵だわ。今までのも良かったけど、これは今までの数段いい。歌 詞だって、シュールだけど、おしゃれだわ」
 智子にそう言われて千尋は嬉しかった。
「でもね、テープは作っても、発表する場がないんだ」
「クロコダイルは?」
「もう、お払い箱さ」
「ええっ!! どうして? あんないいコンサートやってたのに」「一度、客の入 りがひどく悪いときがあったんだ。あそこも、ぎりぎりでやってるとこあるから、そ れっきり」
「他のところは。当たってみたの?」
 智子はそれまでのトーンを変えて、ムキになっている。
「君がそんなにムキにならなくたって、そのうちきっといい場所見つけるさ」
「後はどんな人が入ったのかしら」
  智子は独り言のように言う。

 俊幸の住んでいたアパートを訪ねると、そこには見知らぬ学生が住んでいた。
―あれから、もう三年も経ってしまっているんだ、当然だろうな―

  千尋は、あの 頃よく行った近くの公園や道を当てもなく歩き回った。俊幸達のいた頃の生活が無性 に恋しくなった。あの頃の時間はもう再び帰らないのだろうか。
 自分の住んでいたアパートまで歩いても、さほど時間は掛からなかった。アパー トはそのままの姿で置き去りにされたように残っていた。
 千尋は、それだけを確認すると、なんだか後ろめたい気持ちになって、まるで盗 人のようにそこから足早に立ち去った。
 部屋に戻って、新しい歌を作っていると、智子から電話が掛かってきた。
あれ以来、智子は、千尋の部屋に時々遊びに来ていた。来るときは必ず、ウーロン 茶と、ビールと菓子を持ってきたが、自分からビールを飲むことは決してなかった。 そのせいか、千尋の方でも、もう一歩踏み込んで、あれから後のことを智子に聞きあ ぐねていた。
「俊幸さん、いなかったのね」
「三年ぶりに井の頭線に乗ったけど、なんだか後ろめたくなった」「どうして急に 会おうと思ったのかしら…」
 智子は思わせぶりに言う。彼女がそうなら、自分ももっと図々しくなってもいい ような気もするが、彼女の中の何かが、それを拒んでいるように思えてならなかった し、今、無理にそのことに触れれば、もう智子は自分の部屋に来なくなってしまうか もしれないという思いが、彼を留まらせていた。
「あなたって本当に聞きたいことは口に出さないタイプなのね」
 彼の気持ちを読んだように智子はぽつりとそんなことを言う。
 智子にも見破られてしまったなと千尋は思う。
「どうして、もっと聞こうとしないの? 私だって勇気いったんだよ、初めてここ に来るとき」
「ごめん。その前は、僕があんな事しなければ…」
「そんなこと言ってるんじゃないわ。私にはあなたがなにを考えているのか、よく 分からない。歌を聴いてるときは、なんだか、心の中までよく見えて、とても素敵だ と思ってた。自分もこんな世界に包まれてみたいなって思った。だから、あんな事が あっても、あなたのところにやってくる勇気が持てたのよ。それに、私には、新しい 世界が必要だから」
「新しい?」
「あの人とはもう別れなければならない」
「だから、僕のところに?」
「そうじゃないわ。それに、あなたのところに来たからって、そう簡単には、別れ させてくれないわ、あいつは。でも、絶対迷惑かけないから」
 そう言う智子の目に、恐れに似た光が宿ったかと思うと、またいつかのように、 止めどなく涙が流れた。
 千尋は、智子の相手に対して、尋常でない憎しみの感情とともに、もしかしたら 、相手は相当手強い奴かもしれないと言う気持ちがよぎる。
 新宿でストリートシンガーをやっていたときのことだ。千尋は、一時間位してで きた人集りに少し気をよくしていた。今まで、もう何週間ここに通っただろうか。
 その度に人々は、一瞬足を止めて何だという顔をするか、舌打ちをして通り過ぎ て行くだけだった。次第に、同じ顔ぶれの人々が、足を止めてくれるようになった。 時には、千尋に話しかけて、ギターケースの中に千円札を入れていく人も出てきた。 千尋は、新宿の裏路地のその場所を定期的に吹く風が、自分にとって幸運なものにな りかけている手応えを感じながら、歌っていた。
 その時である。人集りがさっと引けて、訳の分からないことを叫ぶ、濁声が響い た。その様子は、一見して普通の市民ではないということが分かった。
 千尋 は、体格も悪くはなかったし、その手のことに臆病にもできていなかったから、すぐ にギターをケースにしまって身構えた。その途端に、ふっと相手が姿をくらましたと 思えた瞬間、がーんと衝撃が走ったかと思うと、千尋は路地の隅にある、街灯の鉄柱 に体を思い切りぶつけて倒れていた。
 初めて経験する恐怖が体を走った。バンドをやっている仲間に、新宿では、ヤク ザに充分気をつけろと言われて、気をつけているつもりだったのだが、その時に感じ た恐怖は、そんなことを越えるほど強烈だった。
 あの時に感じた恐怖。自分という存在をあっと言う間に、蹂躙し去ってしまう、 理屈のない暴力。千尋は、智子の姿を見つめながら、自分がまだ覚悟できていないの を恥じた。
「私を助けて」
 千尋の胸元で、智子の小さな声が聞こえた。
 千尋は、智子の小さな肩を抱いたまま、かすかに匂う智子の髪の匂いに、今まで 自分が感じていた恐怖を忘れた。
 千尋は、かつて智加に優しくできなかった分、今自分に求められている勇気を震 えながらでもふりしぼって智子を守らなければならないと思った。智子を抱いた千尋 の手に力がこもる。
 智子はそのまま、倒れるようにその場に横たわり、千尋が静かに上から吐息を吹 きかける。千尋の左手が、智子を試すように智子の体を撫で始める。智子は、それに 答えるように体を捩り、二人はそのままぴったりくっついたまま離れなくなる。千尋 の唇が智子の唇を捕らえた瞬間、小さな声を智子は漏らす。その後は、躊躇いなく、 一つのスローな曲でも弾くように、二人は体を動かした。
 すべてが終わった後、智子は、「私って悪い女?」と戯れのように千尋に尋ねる。その目があまりに真剣なのに、千尋は答えるすべを失ったようだった。

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 千尋はその日いつもとは違った気持ちで、コンビニのレジの前に立った。
今まで背負っていた重いものを降ろす覚悟がついたように、その目はきりっとしっ かり何かを見つめている。深夜十二時を過ぎた頃だろうか、誰もいない店内に、一人 の男が入ってくるのをガラス越しに追っている。
 男は、鼻の横に大きな黒子があった。その男は今、全身に立ち上るような災厄の 気配を漂わせて、まっすぐに千尋の立っているレジに向かってくる。千尋は顔に諦め に似た覚めた気持ちを浮かべて、構えていた。
 その男が、智子の相手だというのは間違いがなかった。いつもコンビニで買い物 をして帰っていくときの、あの不敵な態度。時に智子のすぐ後に現れて、店の様子を うかがっていったあの姿。千尋の中にその全てが関連づけられていくと、男は一層の 脅威を持って迫ってきた。
「ちょっと、店空けてもらおうか」
 男の低い声が、聞こえる。何かを押さえていながら、破裂しそうなものを抱えた 声だった。
 千尋は、レンジの中を掃除している陽介に、一時店を任せて、男と一緒に店を出 た。陽介は、そのただならぬ気配に、少し興奮したように、ふゅーと微かに口から口 笛ともつかない音を立てて、千尋を見送った。
 足の震えが押さえきれないのを隠すために、軽くステップを踏むようにして千尋 は歩いた。裏路地の、いつか智子を追ったあたりで、男はぴたりと足を止めた。肩の あたりがゆらりと揺れたかと思うと、鳩尾に男の蹴り上げた靴がめり込んだ。この素 早い動きは、喧嘩慣れした者のやり方だ。そう認識するのがやっとだった。次々に男 の蹴り上げる足の響きが体の芯にこたえる。次第に動けなくなっていくのを感じる。
「智子から手を引くことだな」
 野太い男の声が聞こえる。あれ程動いていながら、声は冷静だった。千尋はこの まま動かないで、その場の難を逃れようと、どれ程思っただろう。しかし、彼のどこ かに、智加のあの小さな靴下がちらついていた。自分は最低な人間だった。その時に 、こんな風に思うと、自分の感じている痛さが、どこかへ行ってしまい、アメリカ兵 の暴力と、今自分に加えられている暴力とが、オーバーラップしていく。次第に千尋 のなかに燃え燻っていたものに火がつけられていく。
「うあーっ!!」と叫びのようなものを発したかと思うと、千尋は立ち上がり、男 に向かって体当たりした。
 男は、千尋もろとも、近くにあったゴミ箱に突っ込み、中に入っていた瓶の割れ る音がした。男は立ち上がるや、千尋の襟首を恐るべき力でねじ上げ、強烈なパンチ を加える。千尋の中に、赤い戦慄が走る。何がなんだか分からなくなり、咄嗟にゴミ 箱の脇に転がっていた、割れた瓶の首を持っていた。
 男が、こちらに向かって蹴り上げてくる瞬間を捕らえて、鋭く割れた瓶の首を突 き上げると、鈍い手応えがあって、男はその場に転げ回っていた。割れた瓶の口は、 男の顔面を抉ったようだった。千尋は頭の中にいろいろな色がくるくる回っているよ うに感じた。
 ― 智子を連れて逃げなければならない―  返り血を浴びて、不吉な色に染まったシャツを着たまま、千尋は夜の町を走った 。コンビニの光が見えたとき、中にいる陽介がやけに眩しく見えた。千尋は、この明 かりに人が寄ってくるのは、まるで蛾のようだな、と今までのことを払拭するように そう思った。
 店には誰もいないらしく、レジで退屈そうな陽介の目が、千尋をとらえると慌て た様子で、飛び出してくる。
「千尋!! どうしたんだ!」
 血だらけになった千尋のシャツの様子にただならぬ様子を察したのか、陽介は、 声を抑え気味にしてそう言うと、千尋を庇うように、店の裏口から中に入れた。
「まさか、殺したんじゃないだろうな」
 その言葉に、千尋は漸く自分のしたことが実感を持って襲ってきた。
「割れた瓶の口を必死になって振り回したら、顔にあたっちまったんだ」
「やつはどこに」
「向こうの路地に倒れているはずだ」
「とにかく、着替えなきゃ。それから、シャワーを浴びて」
 千尋のがたがたと震え始めた足を見て、陽介は言うが、その後どうしたらよいの か分からない。千尋を逃がしたらよいのか、それとも。そこまで考えて、頭を降った 。そんなことできるはずがない。千尋は、友達なのだ。
 それから間もなく、着替えて、シャワールームから出てきた千尋に、陽介は、自 分の持っているだけの金を握らせ、そっと裏口から逃がした。幸い、つい先ほど起こ ったばかりの事件は、誰にも気づかれていないらしく、サイレンの音も聞こえない。 千尋は、陽介に後は頼むと言い置いて、その場を去った。

 自分のアパートに行ってみると、ドアの前で智子が呆然と立っていた。
「あいつが戻って来る前に出ていこうと思ってたの。でもあなたのことが心配で」
 どうやら男は、つい先程まで智子と一緒だったらしい。
「殺したかもしれない。今から、一緒に逃げよう!」
 智子の瞳の中に、切迫した真実の光が見えたとき、千尋は、この人こそ大切にし ようと決意した。智加の悲しみの目が智子の目の中に二重写しになっていた。
 一つの破局を前にして、初めて手に入れた美しいものに、千尋は体を震わせた。 二人はそれから、アパートの鍵も閉めることなく、あたかも何事もなかったような穏 やかさと緊迫感に包まれながら、午前四時の町を歩いた。始発の列車に乗り込むまで 、それほど時間はかからなかった。二人は行くあてもなく、ただ南に向かう列車に乗り 込んだ。
 千尋の肩に智子の頭が軽く乗ったのを合図にするように、二人は手を握り合った。列車は明け方の薄明かりの中を南へ南へと進んでいった。
 千尋の中にその時微かに浮かんだメロディーがあった。それは、かつて、智加と 一緒に暮らしていた頃作った、スローなメロディーで、歌詞はつけていなかったが、 千尋が今まで、どんなコンサートでもやったことのないメロディーだった。
 列車のシートに、智子の身体の暖かみを感じながら、そのメロディーを口ずさん でみた。智子は、全てから解放されでもしたような安らかな顔つきで千尋の肩に頭を 乗せ、窓の向こうに流れていく薄暗い景色を見つめていた。




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