小説というものについて

     山本 洋

「神が世界を造った。その神が造ったものを全ていいと言い張るのが天使の役割だが、神の創造原理によって固められてしまった世界、社会に対して、「社会にはこんな欠陥、ばかばかしさがあるぜ」と悪魔が笑う。それに対して、天使も笑い返す。恋人達が森の中を手を取り合って走っていて、二人で笑っている笑い。ただ、この世界は美しい、楽しいと言うだけの笑いがあると。天使の笑いと、悪魔の笑いが混在しているのが、世界だし、社会である。文学者は世界、社会について、どちらかの結論をだすことはしない。その代わりに、こういう疑問があるのだと提出するのが、小説家の役割だ。マルクシズムであれ、ファシズムであれ、全体的な社会原理によって人間が縛り付けられているときには、それを相対化する悪魔の笑いが。逆に全ての人が絶望している時代には、恋人達が笑う天使の笑いも回復させなければならない。」
   ミラン・クンデラ

大江健三郎「最後の小説」

小説の効果とは、多層的で、互いに関連したものであり、それぞれが他の全ての効果から力を得つつ、他の全ての効果に貢献しているのである。

デイビッド・ロッジ

1、ファーブル昆虫記における細部とロマン。

「事のなりゆきはこんな具合だった。我々は五人か六人だった。(略)道ばたの生え たくさにわとこやさんざしの繖房花の上では、もうきんはなむぐりが強い匂いに酔いしれていた。(略)いや、実際私は考え込む。『財産とは盗品である』という乱暴なパラドックスをこの虫の習性の中に流行させた虫仲間のプルードンは、いったいどいつだ。また、『力は権利の上をゆく』という非文明的な言葉をくそ虫の間で尊ばせるようにしたのは、どの外交官か。」
                      ファーブル昆虫記「聖たまこがね」

2、誰に向けて書くのか。

@読者とは誰か?

A自分というもの(人間)の発見。他者の発見。世界の発見。

B自分というフィルターを通した世界を、新たに認識し直す行為。

3、短編と中編と長編

「全体として、世界と向き合う場合、それに対応する大きな虚構の意志の実現には、長編という器が必要」金石範
短編は終わりに向けて疾走する感じ?
中・長編は少しずつ木の中から、仏像を探し当てていく感じ?
精神的持続力の問題−書いているうちに次第に力が抜けていってしまう作品は続けるべきなのか、やめるべきなのか?

4、現実と虚構の間

小説家は、自分の生きる世界に、なにがしかの問題意識を持っているか持たざるを得ない状況にある。現実との不和を何とかして、作品の中で生き直すことによって、それがいったいどんなものなのかを浮き彫りにしたうえで、その世界と和解する。現実を自分に取り込む。
小説家の中には自分の虚構の中に、自分の実人生をも取り込んでしまおうとする 傾向を持っている作家がいる。三島は自分の美学という虚構に自分を完結させようとした。「豊饒の海」のなかの転生を実験したのではないかとさえ思えるくらい、作者に似た登場人物も作品中に出てくる。

飯沼勲−「奔馬」
井上光晴の人生における虚構も同じ。−「全身小説家」
 太宰治も、実人生をその作品のために犠牲にしたといえなくもない。
しかし、上のどの作家も、そうした実人生への態度に、魅力がある。そうした態度でしか、その時代に見えてこなかった真実の姿があった。しかし、現代では、次第にそうした作家の実人生と作品との距離は離れてきているといえるのではないか。

小説家に自殺者が多かったのはなぜなのか?

@自分の持っている、あるいは持たざるを得ない世界への問題意識が大きすぎる場合。

Aその問題意識に対決しても自分の中に取り込むことが不可能だと理解してしまった場合。

B幼児期(3才)までのトラウマ。母あるいは親に愛されなかったことは、三歳までの子どもにとっては生きていてはいけないという答えになりうる。−芥川・三島

現実と向き合うのには、言語が一番直接的なダイナミズムを持っているのではないか。

5、登場人物の得意、不得意。

年下の作者に年上の人物は書きにくい。
男に女の内面は書きにくいのに、女は男の内面を見事に書いてしまうのは何故だろう。

6、会話 保坂和志「この人の閾」− 映像言語的会話

小川国夫 − 会話の中で、行間に背景を持たせ、ストーリーを進めていくやり方。

7、私小説と小説

小説はみんな私小説ではないか? 目の高さ。
「私は、自分で実感できること実質が確かめられることからしか作品をスタートさせることができない。そういう意味では、私の書く小説はみんな私小説で、この小説も私小説である。」
三木 卓「惑星の午後に吹く風」後書きより

8、批評の立場

批評の立場は、その作品の読み方の指標となることを意識しなければ無意味ではないか。

9、書き出し

「吾輩は猫である。名前はまだない」夏目漱石
読者をまず、振り向かせる。初め読者は向こうを向いている。
Come gether rownd people.
おいで皆さん聞いとくれ。
昔々あるところに、

10、ネットワークの利用法

インターネット検索の利用−現場を踏むのが一番だが…。
パソコン通信フォーラムの利用 − 読者の発見 顔が見えない。より客観的な読者
 ややオタク的要素あり。内輪で盛り上がる危険。
サークルの利用−読者の発見 − 顔が見える。必ずしも客観的な正しい批評がなされるとは限らないが、より深い批評も聞ける。

11、絵画的と音楽的 嗅覚的と視覚的

12、手紙文体と会話文体 独白文体(スカース、スキャット)

聞き手=読者 身近で引きつけられやすい。
@太宰治−「葉」
「その日その日を引きずられて暮らしているだけであった。下宿屋でたった独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ布団を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさえみなかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。」

A夏目漱石−「こころ」「私」という青年に当てられた「先生」の遺書という形態をとる。 「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」
「私はそれから、この手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように事件なり、思想なりが運ばないのが苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を放擲するところでした。」

Bサリンジャー−「ライ麦畑でつかまえて」
「もし君が、この話をほんとに聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、僕のチャチな幼年時代がどんな具合だったとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたか、とかなんとか、そんなデービィッド・カパーフィールド式のくだんない話から聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだ」

13、比喩の方法

言語は全て比喩である。 置き換えられているもの。

14、異化の作用

「芸術の最も重要な目的は、日常見慣れたものを非日常的な形で提示することによって、習慣が感覚を鈍らせる作用を克服することだ」
「習慣化は仕事を、衣服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を蝕む。そして、芸術は、人が生の感触を取り戻すために存在する。それは人に様々な事物をあるがままに、堅いものを「堅いもの」として感じさせるために存在する。芸術の目的は、事物を知識としてではなく、感触として伝えることにある。」
                        ヴィクトル・シクロフスキー

シリアスな現実をとぼけた笑いに変質させてしまう、宮原昭夫氏の文章。
格差の大きさ
「(略)昭自身、高校時代から大学にかけて、創作を生涯の目標と思い定めていた。しかし、卒業に際して、昭はさんざん思い惑った末、ついに、それこそポールゴーギャンではなく、サラリーマンを選んだのだ。たとえば教職に就いてその傍ら創作にいそしむ、というような生き方は、昭は頭から信用しなかった。そんなやり方ができるものか、賭けなければだめだ。と昭は教条主義的に凝り固まっていた。
そして当人としては深刻に思い悩んだ末、ついに昭は賭けなかった。(略)」「男の日ごよみ」

  悲しい笑可しさ

「あられもないような日溜まりの中で、育ち盛りのすくすくした少女が一生懸命勉強している。足れ下の水面に、そっくりのシーンが、さかさになってのびたりちぢんだりしている。そをみているる。と、葉二は自分の身体というものが自分をとじこめる檻みたいに思えてく(略)『どこ行くんだ? え? 』と小使いさんはひどくてきぱきと言った。葉二はそのぞんざいな口調にふとおびえてしまった。へどもどして、両手をポケットへつっこんだり、変な笑顔を浮かべてしまったりした。(略)葉二は、自分は永らくここを休学していて、今日はじめて散歩に出たので、なつかしいので寄ってみた、と説明しようと思ったのだ。しかし、言おうとした瞬間、何かしら葉二の中で崩れ落ちたみたいだった。いったいおまえがこの明るさに、おだやかさと秩序に、いつ関係があったというんだ。おれがつながっていたのは、防空壕掘りの登校、木銃を持っての匍匐前進、(略)『あの、校内を見物しようと思って… 』と不自然なカン高い声でどもりどもり言って、中途でやめてしまった。」 
    「ごったがえしの時点」

「死の恐怖を笑いに変える、ユーモアの本質」

 毒饅頭をいかにうまく食わせるか。という小説の本質に迫る。芸術活動はその活動 自体が、本来、毒を孕んでいるものではないか。その毒隠しにあたるのが、小説の場合は、様々な技巧技術と呼ばれるべきもの。しかし、此の毒隠しは、一時的に甘みがあるものの、じっくり後で効いてくる。−異化の作用の中で日常の本質を暴く−

15、場の感覚

三木卓氏の文章
「つい先ほどから、下を流れていく風景はセイシェル諸島からコズモレイド諸島に変わった。インド洋は微かに皺が寄っていて、その皺の一つ一つが陽光を受けて光っているさまは、まるでしなやかになめされた獣の皮膚のようだ。この惑星は液体の形で水を持っている太陽系では唯一の星だが、水の活性こそ、生命の性質を表していると思われてならない。(略)こんな美しい惑星なのに何のためにあるのだろう。僕たちは、この惑星を、この銀河を、意志あるものが作ったという考えを持つことができない。長い歴史の中で僕たちはそう考えるものになってしまった。そのために苦しんでいる。すべてが偶然の所産である、という考えしか持ち得なくなった僕たちの存在は、精神の進化の方向に忠実だったことの結果であるが、今、考えられ得る頂点に立ったところで、その重みに耐えられず、崩れようとしている。」
     「惑星の午後に吹く風」

16、全ての人の批評に合わせて書き換えると、どうしようもないゴミができあがることについて。

何かを言ったり書いたりする行為は、その人の中に何かの核がある。その核を取り除く批評に合わせて書くと、その文章は、結局は何も書かないのと同じか、それ以下のゴミにならざるを得ない。印象批評はその人と別の人の核の違いを述べ合う場でもあり得る。印象批評よりも分析的批評の方が根拠がはっきりする。例えば、登場人物を好きか嫌いかというのは批評ではなく、単なるその人個人の好き嫌いの問題にすぎないのではないか。批評はそれをする人の自己表現だというのは認めるとしても、される側はその人の自己表現を聞きたいとは思っていない。
まず書き手がいて、作品があるということが前提ではないか。読者はあくまでもその後に現れたものであるはず。作品が生まれて、はじめて、場が生まれる。批評だけなら、誰でもできる。でも、自分の批評の通りに作品を書ける人はなかなかいない。
書き直しは、初歩的な部分はのぞいて、書いたその本人が、書き直せる地点まで成長しないとなかなかいい形にはならないのではないか。成長した作者自身の内なる声により、作品も成長するのではないか。

17、視点

登場人物の視点で、物語が展開する。
  私小説−主人公
   小説−トリックスター的人物や目立たない地味な人物だが、全ての事件に関わっている人物。「豊饒の海」の弁護士本多繁邦の視点

18、時間の推移

映画の手法−フラッシュバック( 語り手の存在なし)
小説の手法−フラッシュフォワード(予弁法)(語り手の存在が必要なので、映像では難しい)
小説的現在の設定をしっかりすれば、時間がかなり動いても読者は安心して読めるが、それがしっかりしていないと混乱する。
時間の推移は、登場人物の意識の流れの描写や、語り手を務める登場人物の手記や回想が用いられることが多い。

19、細部

創造の神は細部に宿る。
「ファーブル昆虫記」参照

20、風景、あるいは天気
小説の背景として慎ましやかに用いるべきもの。あくまでも自分の感情を自然界の現象に短絡的に投影すべきものではない。
 景情一致の典型例
 ジョン・ラスキン「感傷の誤謬」−往々にして、大仰で独りよがりの文章に現れやすい。たとえば、花に仮託する作者の人生や気持ちなど。
森鴎外−「舞姫」の風や雪のシーン
エリスと別かれて天方伯と一緒に日本に帰る約束をしてしまった太田豊太郎が、家路に就くまでに苦悩する姿と、都合のよい天候の悪化、そして、それによる都合のよい熱病の描写。
現代の読者は少なくとも、こんなご都合主義の小説の進行には見向きもしないだろう。まさにラスキンの言う、「感傷の誤謬」そのもの。

21、描写と語り

虚構の言説には、常に何が起こっているかを描写している部分と、何が起こったかを語っている部分が交互に現れる。
小説は要約ではない。が、余り面白くない、あるいは面白すぎて、本筋から離れてしまうような部分を簡潔にすることによってストーリーの進行を早めることもできる。
要約的語りは、アイロニー、スピード感、簡潔さを助ける。古典的ディテールへの拘泥とは対局をなす。しかし、それは、生きの良い文体や独特の語りのテンポに補われて初めて、生きてくる。

詩は単声、小説は多声=「対話」
「詩の言説は、単一の文体を通して、世界に対する一つのビジョン、一つの解釈を打ち出そうとする。これに対して、小説は「対話的」で、いくつもの違った文体、声を取り込もうとし、それらが互いに語り合い、さらに、テクスト以外の様々な声ー文化、社会全体の種種の言説ーとも語り合う。」

ミハイル・バフチン

22、偶然性について

リアリズムの小説の場合、偶然を作り出す作者の意図を読者は間違いなく看破する。偶然の中に秘められた作者の都合による意図は、偶然であればあるほど見え透いてくるからである。
しかし、時代により、場面により、あるいは作品の質により、偶然が許される範囲もある。作品の質でいえば、喜劇的作品、エンターテインメントなどは、その偶然により、作品が面白くなれば、ありそうもない偶然でも受け入れてくれるのではないか。
伏線を打つことによって、偶然を必然に変える方法。でも、それもさりげなくでないと、逆効果。

23、タイトル

タイトルはテキストの一部、読者の注意を引き付け、その方向を決定づける力を持つ。
詩的な才能やセンスを総動員する。

1、全体を象徴するもの「野いばらの衣」三木卓

2、主人公の名前 「三四郎」夏目 漱石 3、ビートルズの歌の題名「ノルウェーの森」村上春樹

4、舞台となる場所の名「金閣寺」三島由紀夫 「嵐が丘」ブロンテ 5、詩や聖書の一節からとったもの 「誰がために鐘は鳴る」ジョンダンの詩 6、好奇心をそそるような謎を暗示したもの 7、ある種の場面や雰囲気 8、奇妙奇天烈な題名(最近のはやり)「虹がちゃんと見えないと きに自殺を考える黒人の少女たちのために」

24、フランス構造主義批評家ツヴェタン・トドロフによる、超自然をめぐる物語の三分類

驚異−合理的に説明のしようのない超自然現象が起きる。
怪奇−合理的説明可能。
幻想−自然な説明と超自然の説明との間で物語が決定不可能に揺れ動く。

25、ラスト

短編小説は、ひたすらラストに向けて走る感じ。
「彼は、剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと咽をやった。(中略)芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を下ろした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。目を眠ってぐったりしている彼は死人のように見えた。夜も死人のように静まり返った。すべての運動は停止した。すべてのものは深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた。」

                                           志賀直哉「剃刀」

長編のラストの類型

不確定な未来に向かって話が続いていく終わり型−「開かれた結末」が現代小説の特徴

何も解決しない型1 − 開かれ型
「宗助は家へ帰って御米にこの鶯の問答を繰り返して聞かせた。御米は障子の硝子に映る麗らかな日影をすかして見て、『本当に有り難いわね。漸くのこと春になって』と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、『うん、しかし又じきに冬になるよ』と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。」

        夏目漱石「門」

何も解決しない型2− 開かれ型

「台所のテーブルに座ったまま、僕は墓地の上に浮かんだ雲をじっと眺めていた。(中略)でも僕はその台所のテーブルの前から、どうしても立ち上がることができなかった。まるで、誰かが僕の背後にそっと回って、音もなく体の栓を抜いてしまったみたいに。僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。」

村上春樹「国境の南、太陽の西」

全てが解決する型 − 開かれ型

「『ウチにも遊びに来てね。何かあったら連絡してね』重ねて言う操に、息子に代わって房江が、『留守中よろしくお願いします』珍しくしおらしい声を出す。『…この子達が、あの頃の私たちの年頃になったら…』伊都子が、隣のテーブルの三人を眺めながら、ふと、呟く。『いったいどんな夢を描いて、どんな思い出を築くんだろうね』四人の大人達は、食べている間だけは静かな子供達を、ちょっとの間、無言で眺める。『…さて、そろそろ食事を出しましょうか?』純が誰にともなくそっと訊く。」

        宮原昭夫「陽炎の巫女たち」

途中で終わってしまう型 − 閉じられ型?「『嘘でこんな騒ぎを作るバカがどこにいる』」と苛立ったような声で言う。いる、と真知子は心の中で言い、ジャンパーの男に(中略)もみあっている中から、男が一人、抜け出て、真知子の方に歩いてくる。『嘘』、その男を見て、真知子は息の多い声で、まるでたった一言しか言葉を知らないように言った。」

         中上健次「軽蔑」

               参考文献:デイビッド・ロッジ「小説の技巧」その他