線路               

山本 洋  

大学生の頃だった。僕は新聞研究会に入っていた。どちらかといえば、暗い雰囲気で議論ばかりしているクラブだったので、女子部員などはいなかった。僕が三年の時、文学部の新入生が入ってきた。名前は葉子といった。園田葉子。僕らはその新鮮な女子部員の入部をもちろん歓迎した。  彼女は作家志望だった。「文学研究会にでもいけばいいのに」と無理をして言ってみると、彼女は「文学は、そのものを研究するだけでは駄目だと思います」と言ってのけた。  僕らは、学習会と称してマルクスやウエーバーの本を読み、学生運動について議論した。学生運動はその頃はもはや下火になっていて、大学校内で散発する内ゲバ事件が、辛うじて忘れ去られることを食い止めている程度だった。学習会が終わると近くの喫茶店や安いスナックに行ってまた議論した。他の学生たちが、恋やスポーツや遊びに生き生きとしている時に、時代遅れの議論をすることは、むしろ僕らを興奮させたということもあったのかもしれない。喫茶店でも議論が終わらずに、自分たちのアパートにまで行って話をすることも多かった。部員同士アパートの行き来をするうちに、鍵の在処も知らせ合って、プライバシーもくそもなくなっていった。アパートで話した話は、他愛もない理想論に過ぎなかったのだろうが、当時僕たちは、そうした理想に対しては呆れるくらい真剣になることができた。葉子は、しっかりとした考えを持っていて、それをはっきりと述べて皆を唸らせることもあった。そして議論の後、同じ食卓で貧しい食事をすることが楽しみだった。  いつしか葉子はその可愛らしさのために僕ら男子部員の中でアイドルのような存在になっていった。僕らは時々、議論に飽きるとデパートの試食品コーナーに出掛けていってひやかしながら、少しづつ腹を満たしていくという遊びもした。一人では決してできないこの貧しい遊びも、皆がいれば途端に楽しいものになった。  葉子はそんな時にも、にこやかに笑いながら僕らと行動を供にした。  彼女が入部してから一年が過ぎ、辺りに夏の気配が感じられ始めた頃だった。部員のなかでも、山登りの好きだった石田と大西が北アルプスに行くというので、僕らは壮行会と称して宴を催した。新宿で、夜行列車の時間まで飲んで時間を潰した。店を出てからも僕らは悪乗りして、ホームにまで入り込んで石田たちと車座になって買ってきた缶ビールを飲み続け、時間を忘れた。  夜行列車を見送った後、他の者達は、それぞれに電車に乗って帰って行ってしまった。ところが、僕と葉子だけは帰りの乗り換えの電車が終わってしまっていた。歩いても、それぞれに駅から遠い自分のアパートまではかなりかかりそうだった。  ――中央線沿線の大西のアパートならまだ電車も間に合うのだが――  密かにそう思ったが、葉子に言い出すことはできなかった。しかも、その大西はたった今石田と一緒に夜行列車に乗って行ってしまったのだ。 「大西くんのアパートに行きましょう」  そう葉子があっさりと切りだしてくれたので、僕も助かった。ただ、その時から葉子と僕の間に妙なぎこちなさが宿ってしまった。今までげらげら笑っていたのに、話す話が思いつかずに二人は黙りがちになった。  僕は心の中でまずいなと思った。しかし、何か話さなければと焦れば焦るだけ言葉は遠退いてしまう。中央線の電車に揺られながら、僕らはほんの二駅の阿佐ケ谷までずいぶん長い時間乗っているような気がした。  大西のアパートは、駅から歩いてすぐの所にあった。アパートの鍵は、入り口の電気のメーターの上に隠してあるのを知っていたから、すぐに見つかった。みすぼらしいベニヤ張りのドアを開けると、独特の部屋の匂いが中からぷんと匂った。  僕と葉子は無言で中に入り、電気を点けて、出しっぱなしの炬燵のテーブルの前に座った。 「コーヒーでも飲もうか」  僕は、何だか自分の言葉だけが浮き上がりそうな空気の中で、四畳半の部屋の角にあった棚からインスタントコーヒーを出して、お湯を沸かした。時間はもう午前一時を回っていた。僕ら二人は、コーヒーをずずっと言う音をたてながら飲んだ。そして、少しでも動くと、その音だけがやけによく聞こえた。  隣の部屋では、微かに森田童子の歌声が聞こえていた。じっとしていると、汗が滲むような暑さだった。 「山本くん。私、男の人と二人っきりでこうしているのって初めて」  葉子はそう言いながらスリルを楽しんでいるふうだった。  葉子に「男の人」と言われると、俄に自分は男だったのだなとおかしいくらいにその言葉が、僕の中でひとり歩きを始めそうになった。そんな自分の心を読まれそうなのを隠すために、僕はラジオのスイッチを入れた。  陽気なDJがつまらない話題をいかにもおもしろそうに喋っていた。 「山本くんは女の子と二人でアパートで過ごしたことは何度もあるんでしょう?」  単刀直入な葉子の質問に正直僕はたじろいでいた。もしかしたら、僕は葉子に試されているのかもしれない。そう思うと、余計に身動きがとれないような気持ちになった。 「私、将来小説を書くつもりなの」 「なぜ、今書かないの?」 「今はまだ、経験不足よ。もっともっと色んな経験をして」  葉子はそこで言葉を切った。どうしたのかと思って顔をみると、ほのかに頬が赤く染まっていた。 「別に変な意味じゃないのよ」  そんな葉子を可愛いなと思った。そして同時に彼女が、妙にびくびくしているように思えたので、少し葉子をからかってみたくなった。 「もし僕が今…」  そこまで言うと、喉元に何かが溢れ出してきて、思わず唾を飲んだ。葉子は、じっと見つめる僕から視線を逸らした。何も言わない彼女の答えは、拒んでいるようにも待っているようにも取れた。 「皆に恨まれるからね」  僕は自分の問いに自分でこう答えてから、しまったと思った。これでは自分で自分を縛っているようなものだった。 「もう寝ましょう」  彼女は、擦れたような声でそう言うと、持っていたコップを置いて、立ち上がった。その言葉は、僕の中に何かの波をかきたてずにはおかなかったが、律儀にも僕は自分の言葉に縛られて身動きできずにいた。  彼女は無言のまま押入れを開けて、独特の匂いのする、決してきれいとは言えない夏掛けを二枚出した。そして部屋の角に行き、窓側の柱に寄り掛かって、自分の夏掛けをかけて膝を立てて座ったまま目を閉じてしまった。葉子がこれほど艶っぽく思えたことはこれまでなかった。  もう一枚の夏掛けが、部屋の真ん中に取り残されたように残っていた。その夏掛けの皺が僕の中の何かの感情を表現しているようで妙に印象に残った。  僕は、葉子からやや離れた壁に寄り掛かり、夏掛けをかけながら、電気を消そうか消すまいか迷っていた。 「電気消して」  葉子は僕の優柔さを焦れていたのだと思う。  僕は、今にもはち切れそうな気持ちをやっとの事で押さえながら、そっと電気を消した。 その瞬間、外に飛び出して大声で叫びたいような衝動にかられた。  それから、朝までの時間をどれだけ長く感じたことだろう。僕らは、お互い眠ることもできずに、別々の場所で膝を抱えてじっとしていた。そして、不思議なことに、朝の光がアパートの窓から差し始めると、僕の中にあった突き上げるような気持ちはすっと静まり、葉子も部室で笑っている普段のままの姿に戻ってしまったように思えたのだった。  昨夜のことは嘘だったのではなかったかと思える程爽やかに葉子はその場から起きて、「山本くん。眠れなかったでしょう?」と言った。そして僕は、そんな葉子の声を聞いて初めて、もう戻ってこない濃密な息苦しい時間から解放されたことを知った。  僕らはいそいそと顔を洗い、まるで居てはいけない場所ででもあるかのように大西の部屋を出た。そして、大学まで向かう電車の中で、葉子が小さな声で唐突にこう言うのが聞こえた。 「ストレイシープ、か…」  線路のきしむ音にかき消されてしまいそうなくらい小さなその声に、自分の臆病さが、ずっと続く線路のような平行線を葉子とのなかに作ってしまったのだと思った。それ以後、僕らはお互い、あの夜のような濃密なものを二度と発見することができないまま近付きも遠退きもしない線路のような関係を続けた。  やがて僕にも卒業の時期が訪れ、いつしか葉子とも別々の線路を走ることになった。僕は、地元で教員になり、葉子は二年後に大学を卒業して東京に残り、出版社に勤めた。葉子はその後何人かの男と付き合ったようだったが、どれもうまくいかないまま別れたようだった。僕も何人かの女の子と付き合い、そして別れた。  僕も葉子も、もしかしたら、あの時お互いに感じたもどかしいほど濃密な何かを求めていたのかもしれない。今でも中央線のくすんだオレンジ色の列車を見て葉子を思い出す時、あの夜のことがまず頭の中に蘇ってくる。