鎌倉キリシタンの殉教

絵・村田佳代子

 今から360年前、元和9年、鎌倉で5人のキリシタンが捕縛されました。その場所は極楽寺村の海岸ではないかと思われます。なぜ、鎌倉にキリシタンがいるようになったのか!?

 元和9年(1623年)江戸殉教の15名の中に含まれていた鎌倉キリシタン、ヒラリオ孫左衛門等の顕彰ミサが1982年6月20日カトリック雪ノ下教会において,当時の主任司祭吉山登神父司式のもとに捧げられました。以下、鎌倉キリシタン顕彰会の紹介文から解説します。

 慶長2年2月、日本26聖殉教者が西坂の丘で帰天し、慶長3年8月、豊臣秀吉の死後、京都伏見にいた一大名徳川家康は天下の実権を握るため、スペインとの貿易を望み、日本に潜伏していたジェロニモ・デ・イエズス神父を探し出し、日本での伝道を許すと共に、江戸近海にスペイン船が来て貿易すること、金銀山での採掘技術の指導を頼みました。その頃、徳川家康は豊臣秀吉から関東に八か国を与えられてから8年目でした。慶長4年、ジェロニモ神父は江戸にロザリオの聖母堂を建て、聖霊御降臨祭に最初のミサを捧げました。現在の中央区あたりだとされています。

 慶長7年、日本全国はもとより江戸においてもキリシタンの全盛時代でした。イエズス会士だけでも120人、伝道士が300人近くいました。そして、日本全国のキリシタンの数は総人口2,300万人の中、70万人とも75万人ともいわれ、フランシスコ会士は江戸近辺では江戸、浅草、浦賀の三か所に修道院や教会を建てました。

 江戸浅草と鎌倉との関係は天正18年7月、徳川家康が小田原征伐の功績により豊臣秀吉から小田原北条氏の旧領をもらい江戸に入るために鎌倉を通ったことから始まりました。慶長12年、徳川家康は駿府に隠退、その後三代将軍家光の時代(元和9年)にキリシタン迫害が始まったのです。

 二代将軍秀忠の時、すでに三浦按針(オランダ船リーフデ号艦長ウイリアム・アダムス)によるスペイン人修道会への中傷からキリシタン禁令が2度発令されました。

 度々教会の打ち壊しがありましたが、人々はハンセン氏病患者をひどく嫌っていたので浅草の教会のハンセン氏病院が暗黙の内にフランシスコ修道士たちの絶好の隠れ家となり、また近在のキリシタンたちの安心して集まれる場所となっていました。

 弾圧が激しくなるに従って、江戸浅草近在のキリシタンたちが親戚を頼って相模国極楽寺村や、小袋谷村に移って来たようです。そして江戸浅草から神父や伝道士たちが巡回するようになり、元和9年、フランシスコ・ガルベス神父が鎌倉で捕われたわけです。 結局、小袋谷村近辺にキリシタン伝道所があったのは、わずか9年間ぐらいのことでした。

 小袋谷村あたりにあったキリシタン伝道所の責任者ヒラリオ孫左衛門夫妻と江戸浅草から巡回中のフランシスコ・ガルベス神父(フランシスコ会)それに看彷ジョアン長左衛門、同宿ペトロ喜三郎の5人が、懸賞金目当てに密告され、冒頭にあったように極楽寺村の海辺で逮捕され、江戸は小伝馬町の牢屋敷へと送られました。

 慶長18年の禁教令頃から捕えられていたキリシタンは、浅草鳥越あたりの刑場で処刑され回向院に葬られていましたが、元和9年6月徳川家光が三代将軍になってからは、諸大名とくに外様大名に対して布令を徹底させるため江戸府内で最も賑わいのある場所が選ばれ、この5人も他に捕われていたキリシタンたちと共に東海道江戸の入り口、品川あたりで処刑されることになりました。元和9年10月13日(1623年12月4日)小伝馬町牢屋敷に入れられていたキリシタン52人は、三つのグループに分けられ人々に見せしめのため室町、日本橋、京橋、銀座、新橋、三郎の順で江戸市中引き廻しの上、札ノ辻の刑場に到着しました。そこには51本の柱が建てられその周囲には薪が積み重ねられて、まず49人のキリシタンが縛られました。その時、小伝馬町の牢屋敷内で転んだキリシタンの1人はわざと降ろされ、役人は皆に向かってこのように自由になれるから転ぶ(信仰を捨てること)ようにと説得しました。しかし、誰も応ぜず48人のキリシタンたちは燃えさかる炎の中で殉教してゆきました。その中にヒラリオ孫左衛門、ジュアン長左衛門、ペトロ喜三郎がいました。48人の殉教の姿を馬上で見せつけられていたフランシスコ・ガルベス神父、イエズス会のジェロニモ・デ・アンデリス神父、それにジョアン原主水の3人も、間もなく処刑され天に上って殉教の栄冠をかちとりました。今日では、51人の殉教者の名前は37人だけしかわかっていません。

 これら処刑の後、殉教者の聖遺物が取られないよう番人が置かれましたが、火の消えた頃見物人の中のキリシタンたちは遺骨を拾い集め持ち去ったということです。そのことを聞かされた将軍は、ひどく怒り江戸市中のキリシタンを残らず捕えて処刑するよう命じました。20日後の元和9年11月3日(1623年12月24日)処刑された人たちの親族や、妻子、そしてキリシタンをかくまっていた人々の37人が処刑されました。そのうち24人はキリシタンで13人はかくまった人たちでしたが、子供が18人もいました。そして、6人が火刑、17人が斬首、あとは礫刑だったということです。また、確証はありませんが、その中にヒラリオ孫左衛門の妻がいたということです。 その頃、相模国鎌倉には多くのキリシタンがいました。小袋谷村には元和9年ヒラリオ孫左衛門たちが捕えられてから20年後にもキリシタンが5、6人いたということです。(従って、元和9年の捕縛の時、他国へ逃げたり転んだりした人たちは含まれないことになります)

 その時代、寛永・正保年間、日本全国からキリシタンが捕われて、しきりと江戸送りが続いていました。その後、これら小袋谷村のキリシタン5、6人は転んだことにされましたが、転びキリシタンとして本人は勿論のこと六代未の子孫までもがキリシタン類族として名主や五人組の監視が付き、年に2回旦那寺光照寺の住職が、欠かさずお寺参りをしているとか、仏式によって先祖を供養しているなどの証明書を領主に提出し領主はそれを幕府の寺社奉行所へ提出していました。また、キリシタン類族たちは、毎年2回の届け出の外に出生、結婚、出奔、死亡などに至るまであらゆる証明書が、光照寺の住職や小袋谷村の名主、五人組連名捺印の上、領主を通して幕府寺社奉行所へ提出されていました。

 もしヒラリオ孫左衛門夫妻に子供がいたとすれば、殉教に加わっていないキリシタン類族としての届け出がなされていたわけです。(井上筑後守政重の覚書「成瀬五左衛門代官所、鎌倉ヨリ切支丹56人モ出申候」から)

 また、もう一つここで考えられることは、元和9年ヒラリオ孫左衛門夫妻が捕えられた時に他国へ逃げた人もいたと思われます。元和10年1月2日仙台広瀬川において殉教したマチアス次兵衛もその中の一人ではなかったでしょうか。もしそうだとすれば、彼は元和9年に現在の岩手県と秋田県境にある下嵐江(おろせ)の銀山で捕えられ、イエズス会のカルワリオ神父外6人のキリシタンと共に氷の張った広瀬川で籠の中に何時間も入れられ殉教しました。その後、死体はズタズタに切られ広瀬川の流れは真赤に血で染まったということです。

 最後に、元和9年の殉教から数えて235年後の安政6年8月、五か国条約によって再び復活キリシタンの宣教師としてパリ外国宣教会の司祭が日本へ上陸し、これら殉教者たちの列福手続きの一部が取り上げられました。そして鎌倉の海岸で捕えられた5人のうちフランシスコ・ガルベス神父だけが、慶応3年6月6日(1867年7月7日)日本205福者の列に加えられました。

 しかし、ヒラリオ孫左衛門夫妻の場合 史料が乏しく列福調査もできません。そのような名もない殉教者は、日本全国で4000人とも5000人とも言われています。また、明治8年から明治20年頃まで神奈川県、静岡県の伝道を担当していたパリ外国宣教会のテストヴィド神父は、明治16年の日記に顕彰のため記念碑を建てたいと記しており、100年の顕彰ミサは大きな意味がありました。また横浜教区内においてもキリシタンの住んでいた所は沢山ありましたが、殉教者が出たのは鎌倉と静岡だけです。

鎌倉キリシタン顕彰会