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光が見つからないなら,探しなさい。それは,自分がなぜ不満なのか見つける,ということです。自分は何をすべきなのか見つける,ということです。答はあなたの中にあるはずです。自分に繰り返し問いつづけてください。自分の心と直面するのです。自分の気持ちをのぞきこむのです。恐れてはいけません。それはあなた自身なのです。あなた自身があなたの光なのです。恵みはすでにあなたの前に置かれています。あとはただ,あなたがそれを見つけて,受け取ればいいのです。

それは,あなたが「しなければいけない」と分かっていながらしないでいることをする,ということです。とりくまなければいけない,と分かっていながらとりくまないでいることにとりくむ,ということです。あなたの真実を始動させる,ということです。そうすれば,あなたはホッとできるのです。すがすがしい心の喜びを感じることができるのです。それは逃避先のテレビの笑いなんかよりずっと深い,本質的な喜びです。そうやって,ひとつひとつ問題をかたづけてゆくのです。

正しい方へ一歩一歩,歩いてゆくのです。歩いていっていいんですよ,ユーラ。歩いてはいけないなんて理由は全然どこにもありません。深い心の喜びを求めていいのです。求めてはいけないなんて理由は全然どこにもありません。あなたは美しくなっていいのです。美しくなれるのです。

妖精の国への門はあなた自身です。
門がひらけば,あなたの心は妖精の国と地つづきになります。あなたの中に妖精の国が来るのです。そしてあなたの門からは,命の水があふれ出るでしょう。美しい春の泉のように。それは本当に素晴らしいことです。そして,少しも難しいことではありません。ただ,いつも,あなたのできる範囲でいちばんいいと思うことを,せいいっぱい実行すればいいのです。自分から逃げないで,せいいっぱい立ち向かえばいいのです。それが妖精の国への道です。

§6 
elf in yourself
いとしいユーラ,あなたに今いちばん必要なのは,自分自身を愛してあげるってことです。英語やワープロの技能で人から評価されることによってセルフリスペクトが保たれる,というのでは「セルフ」リスペクトになっていないではありませんか!他人の評価とは無関係の,自分から自分を見ての満足感をさがしてごらんなさい。それじゃ,ただの自己満足?

確かに「ただの自己満足」です。でも,あなたは「ただの自己満足」ができるでしょうか? あなたの持っている服や肩書きや外形的知識量にではなく,その根っこにあるあなた自身に誇りを持つことができますか?他人から評価されるなんてちょろいもんです。他人なんてすぐだまされます。それこそあなたがちょっと外国語ができれば,それだけでもうあなたを尊敬してくれちゃうんです。そういう意味では他人からの評価は無意味です。あなたの外形しか見ていないのですから。

難しいのは,本当の自己満足を得ることです。他人はだませても,あなたの魂はだませません。「自己満足」というのは,高い,高い,はるかなる言葉なのですよ。とくに,あなたのような目覚めた魂にとっては。ユーラ,あなたは「自尊心」という言葉の本当の意味を知っていますか。それはね,「すべての地球人から尊敬されても,私が満足できなければ私は満足できない」ってことなのです。

あなたが「自分は貧しい。もっと美しくなりたい」と思っているのなら,そう思っているその気持ちは豊かでしょう? とても美しいでしょう?だからあなたは,「内面の美しさを磨きたい」と思っている自分自身を「けなげだな」と思ってあげてください。自分をどうしても好きになれないかわいそうな少女のことを,かわいそうだと思ってあげてください。〈あの人のためには,私など生まれてこないほうが良かった〉と思えるほど感受性の強いあなたなら,あなたの中にいるかわいそうな少女のこともかわいそうだと思えるでしょう?あなたが,すべての根っこの部分にある「あなた」を認めてあげない限り,いくら人が評価してくれても,あなたは寂しいままです。

英語なんて関係ないではありませんか! あなたがあなた自身を受け入れる,ってことが第一歩でしょう?
Self-respectには,なによりもまず self-reflectが必要なのです。よろいによって自尊心を保つのではなく,よろいの中の「私」をかけがえのないものだと思う,ってことです。小さな魂に,ふっとスイッチが入って,ぽっとあかりがともる,ってことです。自分自身にたちかえる,ってことです。

あなたにはそれができるし,あなたにしかそれはできません。なにしろそれが「あなた」なのです。

ごらんなさい。
Self の中に elf がいます。それがあなたの魂です。妖精の卵です。それが「あなた」なのです。あなたが薔薇ではなくたんぽぽであるなら,このさい「私はたんぽぽなのだ」「私はたんぽぽでいい」ときっぱり決心してしまいなさい。たんぽぽはかわいらしいけれど,薔薇のふりをするたんぽぽは醜悪だからです。たんぽぽほどたんぽぽらしい花はほかにありません。たんぽぽがたんぽぽらしさを失ったら,世はどこにたんぽぽらしさを見いだすのでしょう。神がお創りになったものはみな美しい。なぜなら,それは神のお創りになったものだからです。あなたは神の子です。あなたは「あなた」として創られている。これは永遠の神秘です。

付録

1 原罪について
あなたの魂は,あなたにとっての真実を直感することができます。このことを,言葉の便宜上,「魂は神に結ばれている」「魂の感覚は神の感覚である」と言い表します。ここで神というのは,この宇宙の背後に横たわる永遠の法則のことです。真・善・美の源泉である一なるイデアのことです。ところが,人間においては,肉の"知恵"が魂の感覚に歯向かうことができます。その結果,人間は食べ過ぎたり飲み過ぎたりします。あるいは,必要以上に減量します。また,必要以上に怠けます。肉が失われる直前になって,死の恐怖を感じます。いずれも,自然の環境においては,人間以外の動物にはあり得ないことでしょう。これが原罪です。

理論的には「肉による魂への反逆可能性」が原罪ですが,通常の言葉遣いでは,この反逆可能性ゆえに生じる葛藤の苦しみを原罪と呼んでいます。教義論的には「アダムが知恵の実を食べたことによる刑罰」です。原罪とはこのような「生まれつき人間が持っている肉と魂の対立」のことであって,あなたが考えているような「生まれてきたことが罪である」という意味ではありません。「生まれてきたことが罪である」「私なんか死んでしまったほうがいいのだ」と考えるその"知恵"こそが原罪の現れなのです。

真実はといえば,あなたが生まれてきたことも,その結果外形的に生じたことも,原罪どころかいかなる罪をも構成しません。「私なんか生まれてこないほうが良かったのだ」とあなたが言うなら,明らかにあなたは神を批判していることになります。神の命じたことに歯向かっています。それこそ原罪です。そんな"知恵"は捨てて,魂の思いに従いなさい。ところで,いわゆる原罪も本当に罪であるわけではありません。魂と肉の分裂があるからこそ,すなわち肉による負荷があるからこそ,魂にとってトレーニングになるのです。負荷がなければトレーニングにはなりません。魂の成長,すなわちあなたが内面的に美しくなることが神のみこころだとすれば,そのための手段であるところの"原罪"の存在もみこころです。

2 大乗・小乗問題
言葉のロジックに従うと,「自分の成長を求めずに,他人の霊的成長のために努力するほうが崇高なのではないか」という感じがするかも知れません。しかし,これも錯覚です。実際,世のため人のためとか,他人を導くとかいっても,あなた自身がまだゴールについていないのに,どうやって,どの方向へ道案内をするのですか。あなた自身がまだ登ったことのない山の頂上へ,どうやって「みんな」をガイドするのですか。外形的には,道はひとつではありません。しかも,みな別々の地点にいます。あなたの魂が「北へ進むのが正しい」と道を示したとしても,万人にとって北が正しいのではない。そんなことでは,むしろ集団遭難のもとでしょう。

例えば,「つねに勤勉であれ」というのは普遍の真理ではありません。「勉強は良いことだ」という言葉のロジックゆえに,多くの子供が歪んだ生活を強いられています。しかし「勉強ばかりが能じゃない」というのも普遍の真理ではありません。「勉強ばかりが能じゃない」という言葉のロジックにすがって,すべきことからの逃避を正当化している人がいます。だから,あなたが「勉強ばかりが能じゃない」というメッセージソングを歌えば,みんなのためになるどころか,かえって他人の魂の成長の妨げになるかも知れないのです。

外形的行動に関するメッセージはどんなものであれ普遍の真理ではありません。そのような方法で一般の人を導こうとするなら必ず害が生じます。「よく遊び,よく学べ」なんてどこかで聞いたような折衷案を受け売りしても同じこと。そういった外形的な指示をいかに詳細に積み重ねても,普遍の真理にはいたりません。普遍というからには,各人が,さまざまな状況に応じて,自分で自分のための外形的指示を導けるようになるために必要な規則をすべて含んでいなければなりません。言わば,戒律ではなく,戒律の作り方を教えるのです。

あなたの人生の第一の目的はあなた自身の修行です。もしも「みんなを救いたい」「みんなの役に立ちたい」と思っているのなら,なおさら,まずあなた自身の修行を完成させてください。あなたの魂に少しでも陰影が残っている限り,あなたは人々を清めることはできません。それでは汚れた手で他人の汚れを払おうとするようなものです。そんな曇った目では,何が汚れかさえ見分けられません。「まずあなたの目の中の丸太を取り除け」と言われる通りです。

3 すべてはそれで最善である
あなたの人生では,無駄なことはなにひとつ起こりません。たとえどんなにネガティブに見えることでも,それはあなたにとって絶対に必要なことばかりです。単に「無意味ではない」というばかりか,すべては極めて深い意味で「最善」なのです。Aを選ぶか,Bを選ぶか,迷っているとします。その場合,Aを選べば,Aを選んだあなたにとっての最善のことが起こります。Bを選べば,Bを選んだあなたにとっての最善のことが起こります。Aが「あなたの真実」だったとすれば,Bを選んだあなたには「補習」のための精選問題が出題されるのです。あなたがある課題から逃げている限り,その課題はあなたの人生において繰り返し何度も現れます。あなたがその課題を克服すれば,あなたはより高い段階へ進むことができます。これが霊的成長ということです。

あなたの人生がつまらないとしたら,それは補習ばかりで前進がないからです。あなたがあなたにとっての真実から逃げているからそうなるのです。「本当はこうすべきなのだ」とうすうす感じながら,それをしないでいるから,先へ進めないのです。「何が自分の真実なのか」「なぜ自分は満たされないのか」を突き詰めようとせず,不満の中で目を閉ざし,耳をふさいでいるからそうなるのです。

4 他人の助言
他人の助言を聞くべきだと思うなら聞くべきです。それは,あなたが「聞くべきだ」と思うから聞くべきなのです。直感的に「この人の話は聞くべきでない」と思われるなら,聞くべきではありません。他人の助言に従うかどうかの最終決定は,あなたの魂に(つまりあなたの心のいちばん澄んだ部分に)ゆだねてください。肩書きのある権威者がこう言ったからこうしてみる,という行動原理では駄目です。結局はその人の言葉に従うにしても,それはあなたの魂による吟味を経てからにしなさい。

「誰々の言った通りにしてみたけれど,うまく行かなかった」といって腹を立ててはいけません。すべてはあなた自身の責任です。そうするのが正しいかどうか,前もってあなた自身の直感に照らしてみなければいけなかったのです。あなたに関することはすべて,あなたに最終決定の権利と義務と責任がゆだねられています。

5 言葉を越えて
キリストの言葉は真理を表しています。しかし,あなたが「聖書にAと書いてある。だからAなのだ」と言うなら,たとえAが真理であるにしてもあなたは正しくない,と私たちは説きます。逆に,「聖書にはAと書いてあるが私はBだと観じる」とあなたが言うのなら,たとえBが誤りだとしても,あなたは正しい道を歩いている,と私たちは説きます。自分で観てください。真理は単純ですが,どんな言葉もその切り口に過ぎません。だから言葉は絶対ではありません。地上にあるものは,いっさい絶対視してはいけません。絶対的なのはあなたの魂だけです。他のすべては,その実在そのものからして疑わしいと観じなさい。真理を言葉のロジックとしてとらえてはいけません。言葉は観照のための引き金,ないしは手がかりに過ぎません。花が「花」という言葉ではないのと同じことです。人が「たんぽぽは美しいでしょう」と言ったなら,あなたは「たんぽぽは美しいだろうか」とロジカルに考えるのではなく,素直な気持ちでたんぽぽを見てごらんなさい。心をひらいて風が愛撫する花の輝きを見てごらんなさい。〈美しい〉というのは言葉です。


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