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●「チャクラで生きる」キャロライン・メイス著・サンマーク出版より引用

○…あらゆる思い込みは抵抗なしに精神から離れることはない。しかし本気で真の癒しを求めるならば、この闘いを続けて、思い込みに取ってかわる、健康を支える思考を作り出していくしか選択の道はないのである。

第一の誤解 人生を決定づけるのは、心の傷である。

 人生の歩みの中で起きる感情的、心理的な傷に影響されないというのは、ほとんど不可能な話だ。文字どおりに、また象徴的にも、傷は私たちの血と肉にしみこんでいく。人の「履歴」は、かなりの部分、身体の歩みでもある。傷とは、いわば人生という霊性の水の流れをそらし、その力を奪いとってしまう小運河だ。傷がたくさんあればあるほど、自分のエネルギーを呼び戻し、その漏れを止めて、癒しのプロセスに注意を向けるために多くの努力が必要となる。流れをそらす運河の数やその深さにかかわらず、癒しを得るためには、生命力が元どおり自分自身の人生の流れに乗れるように戻してやることが必須である。

 しかし多くの人々が人生は心理的な傷の積み重ねであり、それを癒すことはほとんど無理だと感じるようになっている。傷は手放すことができるのだ、という考えに対しても、こんなふうに答える。「あなたにはわからないのだ。あの体験以来、私という人間は変わってしまった。いまさらそれをどうやって変えられるというのか?」

 このような人々はトラウマとなるような体験あるいは悲しみをもたらす体験をしてからは新しい体験はすべて自分にもたらされた傷というフィルターを通してみてしまう傾向がある。その後の人生に起きたことに対しては、必ず過去の体験を投影するのだ。新しい人間関係ができても前と同じパターンが繰り返されるのではないか?と疑ってかかる。縁のできそうな人に対しては、自分は過去の体験のせいで、あなたを完全に信頼することはけっしてできないだろうと警告を発する。プライベートでも仕事上でも自分の人生はとにかく不運の連続であり、それを変えることはできない。傷ついた過去が、自分にやってくるはずだった幸運のチャンスをすべて奪い去ってしまったから、というのだ。

 このような精神状態は悲しいものであり、自分を限定してしまう。敗北主義にも陥っているが、それを維持することで大きな力を得る人もいる。これといった期待もされず限られた責任しかない人生を過ごす免罪符が与えられるからだ。ほかの人間に助けを求めて依存し、その人の罪悪感を利用していつまでも助けてもらうことを可能にするのである。こんな人は、感情的、あるいは身体的な虐待があったおかげで達成できなかった、あるいはいまでもできないでいるクリエイティブな目標について、残念そうに、悔しそうに語ることだろう。社会的に安心できる環境を提供し、傷は過去のものとして水に流せ、などときついことは決して言わないようなサポートグループを捜し求める。心に傷のある人には何も期待されていないのだから、失敗するということもありえない。

 年を重ねるにつれて、傷から一歩踏み出し、異なる人生観へと足を踏み入れるのは難しくなる。年月が過ぎ、このように人を動かしてしまう力と、保護された状態に慣れてしまうにつれて、自分を変えるのがどんどん困難になっているのに気づく。心の傷を強調することは、傷そのものと変わらないほど精神に損傷を与えるのである。傷についてあれこれと思いわずらうことは、それ自体が自分を傷つけ、鞭打つ行為であり、意識は回復ではなく、つねに弱さのほうへと向けられる。それだけではなく、感情的、心理的な脆弱性を信じる精神は、それに見合った肉体しか作り出すことはできない。強さや独立性を恐れるならば健康を回復することも維持することも、きわめて困難だと思えることだろう。(P56)

○象徴視点の力を持つ

 私たちが得られる洞察の中でも象徴視点は他と比べようもないほど強い力をもっている。元型の領域に触れることで人生で起きる出来事の「物理的な」意味を越えて、神なる存在が意識を進化させるために与えてくれた機会としてそれを見ることが可能になるからだ。物理的存在よりも真の「現実」であり、手で触れることができるものよりもずっと強力なのだと神秘家たちが語ってきた次元が象徴視点によってみえるようになる。

 個人意識に比べても象徴意識はよけいな干渉の少ない状態で神なる存在と遭遇できる。永遠と呼ばれている高次の波動レベルを知覚し、それを豊かな内的体験として顕現させることができるのだ。また自然との深遠な関係、創造性の表現、さらには尋常でないレベルの創造的洞察、突破口、解決策などの形をとることもある。

 これまでに述べてきた
3つの力の形態を人生で遭遇するあらゆる危機や問題にどうあてはめればいいか、詳細にわたるステップを第6章で解説する。だが今の段階ではそれがどういうことなのか、象徴意識の力と美をすこしだけ味わってもらいたいと思う。

 たとえば何か深刻な病気の診断を下されたとする。そのような診断をされるとほとんどの人はショックを受け、場合によっては怒りさえ感じるが、これはごく自然な反応だ。しかしいずれは、この新しい状況に対処し、外からの何らかの処置を受けなければならないから、薬を飲み始める。治療を助けるように、食べ物も変えるかもしれない。

 何週間かが過ぎて、自分の願っていた結果がもたらされないとき、心の中である声がささやきはじめる。「なぜこんなことが自分の身に起きるのだ。ちょうどすべてがうまくいっているというのに…」あるいはこう尋ねるかもしれない。「別に驚くことじゃないさ。いつも自分にはひどいことばかり起きるんだ。もう慣れているはずだ。奇跡など起こるはずもないし…」

 そしてうつ状態がやってくる。まわりの人たちはみな何とか希望をもたせようとするが自分の生きている世界のどこにも希望など残されているとは思えない。すると自分のおかれている状況をまったく違う見方で解釈してくれる人に出会う。そしてこう言われる。「私たちは誰でも、自分が犠牲者であるように感じる部分をもっている。それを考えてごらんなさい。親密な関係になったときにこの犠牲者の部分が出てくる人もいる。何か意見を求められると出てくる人もいます」新しいアドバイザーに、それはよく分かる、とあなたは答える。自分を含め、今の例すべてに当てはまる人を知っている、とも…

 「そのとおりです」と言われる。「みんな犠牲者を自分の内に抱えています。だからこそ、その犠牲者の部分を自分自身のものとしてとらえ影響されてはいけないのです。人間の心理を形づくる、ごく自然な一部に過ぎないのですから」。そして今度はこう聞かれる。「もしもあなたが自分の内にあるそういう部分に直面し、その悪い影響のすべてを打ちはらう機会を与えられたとします。それをあなたは受け入れますか?」

 一瞬考えたあなたは、やってみるだろう、と答える。すると、その部分を手放すということは、直接体験する性質のものでなくてはならない、といわれる。自分の犠牲者の部分に真正面から対峙しなくてはならないし、出会う状況も、この力に対処できるような力をもつ部分を発見できるように、犠牲者が最も強く現れてくる状況となる。いいでしょう、とあなたは答える。すると身体に病気が起きる。これがその機会なのだ。そこであなたはまたたずねる。「どうやって内なる犠牲者と直面したらいいのでしょうか?」
「病気は自分を犠牲者だと感じさせますか?」とたずね返される。
「はい、何の力もなく、汚され、打ちひしがれ、身体に裏切られたように感じます。怖いのです」「そうしたら、その気持ちに焦点をあわせてごらんなさい」。あなたはこう指示される。

「病気に、ではありませんよ。そしてこれから言う真理を導きとしなさい。難題が起きても、それを決して自分自身のものと考えて打ちのめされてはいけません。それが病気であろうと、人間関係にまつわる心の傷だろうと、仕事の面での危機でも同じことです。最初の一歩は、その難題から自分を分離することではなく、その危機があなたの内面に引き起こす「自分は犠牲者である」という感情にしっかりと直面することなのです。
2番めのステップは、その気持ちの中に、まっすぐ入っていくことです。問題は病気ではありません。このことを毎日100回でも、必要ならば1000回でも繰り返しなさい。問題は病気があなたの内面に引き起こす、力の喪失感なのです」

「そうしたら今度は自分に力を与えてくれるようなものを捜し求めていきなさい。身体に力がみなぎるような選択をするのです。信じる心、という概念を育み、内面にある自分の霊とさらに関係がつよくなるにはどうしたらいいかを考えるようにします。問題は病気そのものではない、ということを自分に繰り返し言うことを忘れずに。あなたはこれまで、いつも打ちひしがれ、怖くてしかたがない、という気持ちにさせてきた自分の内面の部分と直面しているのであり、病気はその怪物に真剣に立ち向かっていくための手段でしかないのです」

「そして自分の持っている強さに意識を向けなさい。それがどんなにささいなことのように思えても、毎日自分が達成できたことを祝福してあげましょう。象徴的にみれば、どんなことでも達成すること自体が大変なのです。いつも自分に影響を及ぼしてきたパターンを強さ、弱さ、両方の面から探してみなさい。そして力を弱める方に働くパターンに対し、その姿を見せるように招いてあげるのです。一日一つでもかまいません。それが何かを見きわめ、同じパターンにはまらないように、今までとは違う選択ができるようにするためです。そして実際に新しい選択をしてごらんなさい。」

「日一日と、あなたの内にある犠牲者は力を失い、勝者が強くなっていきます。日一日と、自分の人生との絆が深まっていくのを感じるでしょう。振り回されてしまう人生ではなく、自分の力で方向を定めていると感じられる人生です。それがあなたの人生のあるべき真の姿です。生きたいと感じさせる人生でなくてはならないからです。力を得るということは、自分には何でもできるという気持ちにさせてくれるものなのです」

「やがてある日、もはや内なる犠牲者のことをまったく意識していない自分に気づくことでしょう。新しい人生を作りだしていくことでも、あるいは充実して生きてきた人生の終わりにそれを手放すことであろうとも、直面せねばならないことでならば何でも直面していける強さがもうあなたにはあるのです。生きるという体験自体が、普遍的な意味で非個人的な性格のものであることを、自分の人生に個人的に深くかかわっていく…これこそ、まさに自分を知る、ということのあるべき姿なのです」(P137〜P141)


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