「ガリバー旅行記」について


「ガリバ-旅行記」において、スウイフトは、ガリバーを小人の国、巨人の国、学者の国、不死の国、馬の国へと現実にありもしない国々(日本を除いて)に漂流させ、人間を様々な角度から観察、風刺している。
そこには、(1)寸法を変えてみる(2)科学技術のもたらす問題(3)異文化接触による自己の相対化、(4)動物から見た人間観など、スウイフトの複眼的視野がある。
ガリバ旅行記の18世紀は、市民社会の成立とともに、王、貴族、人民のせめぎあいのなかで、政治体制が混乱した時代にあった。スウイフトは、王がいて議会があり国王の権限が議会によってコントロールされる政治体制を理想としたといわれる。
小人国、巨人国、学者国、馬の国すべて国家論を展開しているのは、当時、スウイフトが、政治体制に関心が強かったことを示している。
彼は、イングランドからは締め出され、アイルランドにおけるイングランド人の利益を代表していた。
巨人の国、馬の国にスウイフトが求めたキーワードは、「平和」「正義」「幸福」であった。
小人の国は当時の英国の縮図で、商業によって成り立ち、戦争、政争、宗教対立に明け暮れていた。
一方、巨人の国は、農業で成り立ち、宮廷でも農夫でも家庭がきちんと存在し人々が温かく親切である。スウイフトは、巨人の国にユートピアに近いものを表現しようとしていたのではないか。
当時、幸福というものに、特別な意味があったという。
キリスト教の禁欲から「快楽」がプラスの価値概念になりはじめた時期で、快楽の増大(富)と行き過ぎた理性(馬の国)を牽制しながら、スウイフトは、具体的な個々人の「幸福」に視点をおいていた。

参照)富山太佳夫氏「ガリバ-旅行記を読む」の白鳥義博さんの書評


第一篇

1.小人の国(Lilliput)

第二篇

2.巨人の国(Brobdingnag)

第三篇

3.飛ぶ島(Laputa Balnibarbi):ラピュタ

4.死者をよみがえらす国(Glubbdubdrib)

5.不死の国(Luggnagg)

6.日本(Japan)

第四篇

7.馬の国(Houyhnhnms)


            

1.小人の国(Lilliput)

・鳥瞰

---パロディ、戯画化:
当時の政争、宗教対立、戦争に明け暮れる英国の縮図。このあたりの解読は、高坂正尭著「近代文明への反逆」に詳しい。

---小さき者の美しさ、愛らしさ:
日本へ本格的にスウイフト及びガリバ旅行記を風刺小説として紹介した夏目漱石の俳句に「すみれほどの小さき人に生まれたし」というのがある。
人間を辱めようとしてして書いた旅行記であるが、作者の意図に反して童話として読まれている。
人間を嫌う心に優る、美しきもの愛らしきものへの憧憬があればこそである。

---スウィフトと漱石
漱石とスウィフトの共通点は「厭世」哲学にある。
漱石は、人間は文明の下にあって、もはや、ルソーのいうように、「自然に帰る」ことは不可能と考えていた。未来においても、部分的(非本質的)のままで社会に生きなければならない、という「不満足」感を持っていた。
一方、スウィフトも、馬の国のガリバ-のように、理性主義の馬か、放縦なヤフ-のいずれかにしか出口のない世界を呪いつつ、旅行記を書いた。
(参照:「文人達のイギリス18世紀」海保真夫、「漱石論集成」柄谷行人)

2.巨人の国(Brobdingnag)

巨人の国は、農業で成り立ち宮廷でも農夫でも家庭がきちんと存在し人々が温かく親切である。
英国社会の縮図として諷刺した小人の国と対照的で、富山氏の言うように、スイフトはこの巨人の国にユートピアに近いイメージを持っていたのかもしれない。            

・拡大鏡

---巨人の国は、ガリバーにとっては拡大鏡で見ている世界。拡大鏡でみた女性の乳房や皮膚などの描写はあまり趣味が良いとはいえないが、拡大鏡は、事実をリアルにみる効果があり、常に既成観念を打破する力を持っている。

---スウィフトの時代に、顕微鏡を発明したオランダ人”レーウェンフック(1632-1723)”という人がいて、微生物などの観察結果を王立協会に報告し、大変な反響をもたらしていた。
スウィフトが、「寸法を変えた物語」の着想を得る契機になったと考えられる。
(クライフ著「微生物の狩人」岩波文庫参照)

   

3.飛ぶ島(Laputa & Balnibarbi):ラピュタ

浮遊する知識人




---科学の支配:

ここラピュタ(飛ぶ島)は、数学と天文学と音楽を司る学者たちによる世界で、地上の島を支配している。
インテリゲンチャで支配者でもある。
常に天体の動きを気にし、数学や音楽の理論的整合性やアルゴリズムの簡潔性や幾何学的美しさなどを議論していて、理論的整合性のとれない現実問題は、切り捨てるか、力で抑圧してしまう。
(飛ぶ島)は当時のイングランドで(地上の島)はアイルランドを指し、イングランドによる過酷なアイルランド支配を風刺したものといわれている。
当時はニュートンの時代であり、音楽家にはヘンデルなどがいる。
(ヘンデルにも一度だけ会ったことがあることは、ヘンデル側の伝記(ホッグウッド著「ヘンデル」)で知ることができる。ヘンデルとスウィフトは、意外なことにジョン・ゲイの「乞食オペラ」を介して結びついていた。
「乞食オペラ」は、1728年、当時もてはやされていた「イタリアオペラ」に対して、庶民的な音楽と題材を選び、母国語を用いた最初の音楽劇(バラッド・オペラ)で、当時の世相とくに政界を風刺し大当たりとなった。
この「乞食オペラ」の制作をそそのかしたのがスウィフトで、当時「イタリアオペラ」の作曲、企画をしていたのがヘンデルである。
「乞食オペラ」の大当たりで、ヘンデルの「イタリアオペラ」劇場は潰れ、以降、ヘンデルに「オラトリオ」しか上演できなくさせたといわれる。
尚「乞食オペラ」は、1928年ブレヒトによって「三文オペラ」として脚色された。)

---現在は常に過渡期:
この飛ぶ島ラピュタのインテリジェンスは、地上の島(バルニバーニ)に影響を与え、進歩の理念に基づいた現実の改革が求められ、現実を常に実験の場、過渡期と考える風潮が支配する。
「現在」を「未来」の手段としてしか考えないため、常に破壊され、荒廃している。
ここでの風変わりな学者の実験などの話は、ニュートンが会長をしていたロイヤルソサイアティの論文集からヒントを得たと言われている。スウィフトは、ニュートンをはじめ科学への不信感を強く持っていた。

---知識処理の原形:
企画研究所での実験は、現実を無視した荒唐無稽なものばかりであるが、このなかに、文字のランダムな組み合わせから新しい言葉や発想を得ようとするマシンが登場する。
KJ法や人工知能コンピュータよる知識処理に類似していて興味深い。
また、ここで想定されている文字が、日本のかな文字に似ているといわれている。

---言葉の単純化:
 知識人達が考案した対話の方法、すなわち対話を簡単にするために名詞だけで、しかもそれに対応する物で<物々交換>ならぬ<物々表現>をする場面が出てくる。
丸山圭三郎は「言葉とはなにか」(夏目書房)のなかで、この場面を、「言葉は物の名前の集まりで既存の事物や概念と一対一の対応をしていると思い込んでいる」典型例 としてとりあげている。
また、「馬の国」においても、「ありもしないこと」を言う嘘やごまかしの言葉はヤフー特有の現象で、フイヌム達には、嘘とか事実以外をあらわす言葉がないとガリバーに言わせているが、スウィフトは、市民社会の台頭は、欺瞞のメカニズムを助長させる傾向が有ることに危惧を抱いていた。
しかし、逆に「言葉」の単純化は、思考の単純化や統一化につながり、一義性による抑圧をもたらす危険性を持っていることは、馬の国のガリバ-の結末がそれを暗示している。

(右上の絵は、ルネ・マグリット「ピレネーの城」、直接関係はないが、飛ぶ島をイメージさせる。)  

4.死者をよみがえらす国(Glubbdubdrib)

・死者の眼

---過去からの連続性:
死者を蘇えらせる魔術の国にもガリバーは立ち寄っている。
「現在」は、「過去」のおびただしい死者との連続性のなかにあり、歴史は、死者たちとともにつくられる永くて広大な世界である。
しかし、「過去」は、常に現在に生きているものに都合の良いように改編されるのが常である。
スイフトは、死者を呼び出すことで「現在」を相対化するとともに、過去の死者も、身勝手な「現在」人であったことを、世代の異なる死者同士を対話をさせながら、暴いてゆく。

5.不死の国(Luggnagg)

・不死と老醜

人間は、「できることなら私だけは死にたくないもの」と密かに「不死」を願っているものである。
その願いを叶える「不死」の国をガリバーは訪れるが、そこでの「不死」なる人は、いつまでも若くはいられず、老醜をひたすら耐えるだけの人生を送っている。
死んでゆく人を羨望し、嫉妬する有様である。
「ほどほどに死を覚悟なさい」という結論であろうが、樹木のように何百年を隆々と生き続ける生物もあり、命の永遠や長寿の楽しさを描いてもよかろうと思わないでもないが、そこはスイフトのこと、人間の生だけは、信用していない。
老醜をことさら醜く描いている。

6.日本(Japan)

・踏絵とオランダ

旅行記の中で、ガリバーが訪れた唯一の実在の国が日本である。
他はすべて架空の国であるのに何故日本を入れたのだろうか。
色々想像されているが、当時日本は鎖国状態にあり、ヨーロッパ人には、日本はまだ「想像の国」でしかなかったのかもしれない。ヨーロッパの小説で始めて日本が取り上げられたのは、このガリバー旅行記であるといわれている。
しかし、スウィフトの意図は、そんなに単純ではない。当時、日本との貿易については、オランダが独占しておりイギリスは激しい競争の末、撤退を余儀なくされた経緯がある。スウィフトは、ヨーロッパの植民地への進出には批判的であったが、とくにオランダに対しては、日本で「踏絵」をしてまでも日本との貿易で甘い汁を吸おうとしていることへの諷刺のためにこの章を追記したとも言われる。

7.馬の国(Houyhnhnms)

・逆転

スイフトは、ヤフーという人獣を創出した。馬を主人とする国の家畜人間である。
家畜と人間の関係を逆転させただけでなく、ヤフーを最も性質の悪い家畜として描いた。
人間は、天然自然の世界においては異端児であり、逸脱者である。
頭脳が著しく発達して、自然を手段としつつ「人間の世界」を拡大してきた。
人間は、自然から生まれながら、自然との調和を考えるようにはできていない。
従って、極論すると、自然を破壊してやがて自滅するか、人工人間に自己改造してゆくか、の道しか残されないことになる。
こんな不安が、映画「猿の惑星」や沼正三の小説「家畜人ヤプー」を生み出した。
いずれも、スウイフトに触発された作品である。
戦争、貧困(貧富の差)、人権蹂躙、自然破壊は、地球のどこかで常にある。
人間の堕落した性質は永久に改まらない。
「堕落した理性は、獣性よりも却って恐ろしい」
スウイフトは、馬の国の自然の徳の支配下にあって、醜い家畜「ヤフー」として教調されながら生き延びる人間を描いた。しかし馬の国は、自然への回帰であるが、人間にとっては、単純で狭い理性によって友情と仁慈が強制され、優生淘汰が行われがちな権力なき全体主義(高坂正尭著「近代文明への反逆」)の国にすぎないかも知れない。
ガリバーは、「ヤフー」を超克する理性的人間になろうと努力し、結局、行き過ぎた理性や潔癖感によって、人間嫌いに陥る。
スウイフトは、理性的人間になれると思い込んでいるガリバー(つまり人間)を笑い者にしているのである。
スウイフトより半世紀ほど前に生きたパスカルが「パンセ」のなかで述べているように、
「人間は、天使でも動物でもない。我々は、真をも善をも幾分ずつしか持たず、しかも、偽や悪も混ぜ合わせたものしか持たない。」
と言ったところが人間の実態かも知れない。