このさい『ハウルの動く城』を語ってしまえ(発動編)

 さてようやく本題です。既にして、前フリの方が長くなりそうな予感は充分すぎるほど実感してますが、それはそれ。
 まずは、いい加減あっちこっちで触れられているサリマン=母親説から始めましょう。

 20日に一回目を見に行った時、見落としていた重大事項。何かというと、サリマンの小姓が金髪ハウルにそっくり、ということでした。21日になって、人の感想が知りたくなって2chの感想スレッド見に行って、初めて知りました。
 そのほか、原作設定など、色々な情報とあわせて考えてるうちに、この解釈を思いついて、翌日もう一回映画見直して、接触編書いているうちに、先に(2chで)指摘されちゃいました。
 それ、俺が言いたかったのに!!

サリマンとハウルの擬似親子関係

 サリマンのハウルへの執着をあらわす一番の要素は、上に挙げたお小姓さんの存在です。その素性は、荒地の魔女も操っていた使い魔の、より高性能で見栄えが良いタイプとされています。
 ちなみにこの小姓、ソフィーの母がスパイ任務を果たした後の会話で、サリマンのことを『サリマン先生』と呼んでいます。サリマン自身の証言によれば、彼女のとった弟子はハウルが最後とのことなので、これは当時のハウルの口調を、そのまま移植したものと考えられます。
 更にサリマンはハウルを指して、自分の後継者と考えていたという意味の台詞も口にしています。弟子は他にもいるようですが、ハウルは特別だったんですね。
 そして、接触編で触れたように、サリマンはハウルに対して支配的な位置に立とうとしています。これは彼女が、母親として子供を管理、指導する意思を持っていると見ることが出来ます。
 実際、長いこと指導者の立場でハウルと関わっていた訳ですから。

 原作では男性であるサリマンが、女性に改変されていることからも宮崎監督の意図を推し量る材料となります。話を総合すると、どうも名前と役職だけ残して、ハウルのお師匠さん(女性)である別のキャラを無理矢理中に突っ込んだということらしいです。
 ……にしても、思いっきり男名前のままってのは、どういうことなんだか……

 一方ハウルは、はっきりとサリマンを避けています。サリマンを指して『怖い人』といっています。しかし同時に『戦いたくはない』相手でもあるのです……別に、勝てないからってだけの理由ではないと思います。
 好きだけど、あまり構わないで欲しい。そんなところでしょう。

 とはいっても、きっぱりと『母親』の干渉を撥ね付けるわけでもなく、単に逃げ回っているだけ。あの様子では、表立った反抗の姿勢すら、見せていないでしょう。
 まだまだ一人立ちするには早いと思われても仕方がないです。

 で、そこにソフィーが関わってくる訳です。彼女が果たした役割をいくつか挙げてみます。
 ・ハウルが自己を肯定出来るよう後押しし、精神的に成長させる
 ・国王(の後ろにいるサリマン)からの招聘を断る=.母親に反抗するよう促す
 ・サリマンにハウルを管理する権限は(もう)ないと主張し、ハウルへの干渉を断とうとする
 こうしてついに、ハウルは母親と対峙するに至りました。サリマンの追撃を振り切って、ソフィーを守り自分の意志を貫きました。
 独立を認めさせるとまではいかず、以後あからさまに妨害される訳ですが、ハウルの意志が揺らぐことは、これ以降ありません。恋の力は偉大です。
 ここで彼の成長は一区切りです。めでたしめでたし。

 しかしそこで話は終わらんのです。ソフィーの成長はまだ終わってません。この話の主人公は、ハウルではなく彼女です。
 で、次からその内容について独自解釈していくわけですが、こっちのほうは似たような主張はあまり見かけませんでした。
 つまりそれだけ強引な訳ですが。

ソフィーと魔女の嫁姑対決

 ハウルがサリマンを乗り越えなければならなかったように、ソフィーが対決し、乗り越えるべき相手。それもやはり『ハウルの母親』です。しかしその役目はサリマンではなく、専ら荒地の魔女が果たしている模様です。
 もちろん、魔女がハウルに対して抱く感情に、サリマンと違って明確な母性は見られません。どちらかといえば、女としての恋愛感情だと思われます。『老いてなお盛ん』、『灰になるまで女は女』といったフレーズすら浮かびます。
 あくまで、ソフィーの親世代との対決という視点からキャラクターの配置を見た場合、,その機能を負ったのが荒地の魔女だというだけです。

 強引に母親的要素を探すなら、
・原作より大幅に外見年齢が上がっている。
 ……宮崎さんがオバハン好きなだけ?
・ハウルの反応がサリマンと全く同じパターン。
 好意的(ストーリー開始前)→『怖い』(ストーリー序盤)→もう大丈夫(ソフィーとラブラブ)、の三段階
・魔力を奪われてからの描写

 この物語のは、ソフィーがハウルに一目惚れをしたことから始まります。
 心臓が子供の頃のまま=少年であるハウルに恋をするということは、少年の支配者である『母親』から相手を引き離し、自分の元に来させる──つまり奪い取ろうとすることを意味するのではないかと思うのですよ。
 しかしここであっさりと、母親が子供を手放すかというと、そうもいかない。
 かくて、少女と母親の間で、少年に対する優先権を廻っての対立構造が生まれるわけです。
 人類普遍の一大テーマ嫁vs姑の仁義なき争いの始まりでございます。
 だから話の冒頭で、ハウルへの恋心が芽生えるや否や、魔女がやってきて呪いをかけるんです。あれは母親側の先制攻撃なんです。

表面的な事象としては、空中散歩でいいムードだったのを目撃して、嫉妬から起こした行動と言うのが共通見解ですが、ここでは強引にこう解釈します。

 その後、ソフィーはハウルの心を掴むことに成功します。ここで失恋したら話は進みませんから、自動的にそうなります。
 この映画は、恋愛をテーマとしてますが、いわゆる『恋愛もの』とは一線を画す内容です。ラブロマンスでもハーレクインでも、メロドラマでも純愛でもありません。
 この映画において、相思相愛の状態は目的ではなく通過点でしかありません。少年と少女が出会い、恋をすることで大人になり、世代が切り替わるまでを描いているのです。
 故に、両思いになるだけでは不十分なのです。少年、つまりまだ子供であるハウルを、親から独立可能な大人にまで成長させる必要があります。

 遅ればせながら忠告を。
 只今お読みの発動編は、この映画を、一種の神話と位置付けた上でいじくり回してます。
 神話というのはたいてい、スケールの大きな世界観を提示する一方で、個々の登場人物は記号的といっていいほど類型的で、個性がありません。
 アダムとイブがなんでくっついたか、イザナミ・イザナギは互いのどこを気に入ったか、そんな事考えてもどーにもなりません。
 どうやって相手の愛を得るか、なんて枝葉末節はどうでもいいんです。
 男と女が出会ったら、恋が生まれて当たり前。
 ……そのくらい大雑把なノリで書かれてます。

 ハウルの成長については既に触れたので割愛します。問題は、ソフィー自身が、完全に成長しきっていなかったことです。花畑でハウルの求愛から逃げたことからも判るように、サリマンとの対決を終えた時点では、まだソフィーの方に迷いが残っているのです。
 だから、ハウルが成長してもサリマンは独立を認めないし、荒地の魔女も諦めず、ハウルの心臓(心、あるいは支配権)を無理矢理にでも取り戻すのです。
 完全な独立を果たすには、ソフィーがためらいを捨てて、恋人をしっかり掴んで離さない意志と覚悟を示し、『母親』に彼女の勝利を認めさせる必要があるのです。
 窮地にあるハウルを救うために行動したとき、この課題もクリアされました。完全に迷いが消え、ハウルとともに人生を歩む決心が完全に固まったとき、再びソフィーはハウルとともに、心臓を持つ荒地の魔女の所へ向かいます。
 接触編の最後で無謀にも宣言したように、この映画の最大の山場は、ソフィーが魔女から心臓を受け取る場面です。
 『そんなにこれが欲しいのかい』という問いを、明確に肯定することで、母親である魔女から、息子を託すに足る相手であると認められたのです。
 燃える炎の中から、手づかみで取り出すほど執着していた心臓を、静かに魔女は手渡しました。そこにあるのは、無事に子供を育てきった、母親の満足感と寂寥感であるように、俺には見えてしまうのです。

ハッピーエンド

 ソフィー達もいずれ、年を重ね、子供たちを見送る側に回ります。恋と成長と巣立ちのアップダウンを繰り返す、『人生のメリーゴーランド』ずっとそれを繰り返して人は今まで続いてきたし、これからも続いていくのです。それが我々が生きているこの世界の根本原理、すなわち『世界の約束』です。



──と、ここまでこじつけてしまえばもはや
恐れるものは何もないッ!

おわりだ。