あの忌まわしい事故から33年たった…


 
「当時の私は鉄小学校に在学中で運動会の最中に火を噴く機体を見上げていた者の中の一人です。まだ低学年だった事もありお子さんの名前や怪我をした方の人数など記憶が曖昧だったのですが、林さん母子の他にもあんなに大勢の方が被害を受けていた事、こちらを拝見して初めて知りました。お子さん達の最期の言葉『パパ・ママ、バイバイ』や『ポッポッポ』は幼かったながらも未だ脳裏に焼きついています。それに 私の父があのお母さんと同時期・同じ病院に入院していた為、お母さんが薬浴治療で本当に苦しまれていた様子も聞いていました。あの体験は私にとってもある種トラウマになっています。黒煙と炎を噴出しながら自分達の頭上を超低空で飛んで行った戦闘機、パラシュートで脱出した兵士がフワフワと田んぼに落ちてゆく光景、そして轟音とともに山の向こうから立ち昇った大きくて真っ黒なキノコ雲…。あの光景はきっと一生忘れる事が出来ないでしょう。」
     
           「1977年横浜市緑区の米軍機墜落」を小学生当時に目撃された方より


パパママ・バイバイ
 横浜市緑区(現在の青葉区)の米軍機墜落事件<1977年>

1,ジェット機が落ちてくるぞ 
 この事件が発生したのは、1977年(昭和52年)9月27日の事ですから、今からちょうど20年前の事になります。
横浜の中心部から北西に15キロメートル程離れた荏田(えだ)町。
 国道246号線と東名高速道路が交差し、丘や山が崩され大型の宅地造成が進み、高層のマンションが立ち並びつつある地域でした。
 午後1時17分頃、米海軍厚木基地を離陸した米海兵隊所属RF−4Bファントムジェット機が相模湾沖を航行中の空母「ミッドウェー」に向かう途中、エンジン火災を起こし、荏田町の宅地造成地に墜落したのです。
 墜落地点から2kmほど手前の横浜市立鉄(くろがね)小学校では運動会が行われていましたが、校舎の屋上をかすめて火炎と黒煙を上げながら墜落していくジェット機を生徒も父母も目撃し運動会が中断してしまいました。
 そして、轟音とともに黒煙が山の向こうに立ち上がったのです。


2,助けを求める人たち 
 墜落地点一帯は全長19メートル、重量26トンの機体と大量のジェット燃料が飛散し、付近の公園と民家を飲み込んで一瞬にして火の海になってしまいました。
 炎上する家の中から、火がついた衣服をまとって大やけどを負って助けを求める女の人。血ダルマの幼子をしっかりと抱きかかえ飛び出す母親の姿がありました。
 その時の状況を被災者の救出活動に参加した人は「「たすけて−」と悲鳴をあげながら女の人がかけてくるんです。顔は火ぶくれでふだんの2倍ぐらいにはれあがり、髪は焼けちぢれ上着はボロボロ、わずかに下着がついている程度でした」と語っています。

3,自衛隊の救難ヘリコプターは 
 事件発生と同時に米軍から連絡を受けた自衛隊はすぐに救難ヘリコプターを厚木基地から緊急発進させ、事件発生の10分後には現地の上空に到着しました。
 しかし、救難ヘリは大やけどを負つて救助を求めている被災者を助ける事なく、墜落前にパラシュートで脱出し、はとんど無傷で地上に降りた2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地に帰ってしまい、再び飛んでくることはしませんでした。

4,「パパ ママ バイバイ」・裕一郎君と康弘ちゃんの死 
 火炎が広がり、黒煙がきのこ雲のように立ち上るなか、付近で仕事をしていた宅地造成工事現場の人達による必死の被災者救出活動が行われ、民間人の通報で救急車が到着2人の幼児を含む9人の重軽傷者が病院に運ばれました。
青葉台病院に収容された林裕一郎君(昭和49年8月24日生まれ・当時3歳)と、弟の康弘ちやん(昭和51年3月28日生まれ・当時1歳)は、全身大やけどを負い包帯でぐるぐる巻きにされ「水をちょうだい、ジュースジュース‥‥」と叫びましたが、容体が悪化するので水もジュースも飲ませてもらえませんでした。
 そして、この日の深夜‥‥‥。
 青葉台病院には2人の幼さな児と椎葉悦子さん、林早苗さんらの大やけどを負った被災者が収容され、夜になってもあわただしい時間が過ぎていきました。
 午後10時過ぎに、裕一郎君は「痛い いたいよう‥‥」「水、みずをちょぅだい‥」の叫び声の合い間に黒いどろどろした物を吐くようになり、急速に弱々しくなっていきました。
 「おばあちゃん、パパ ママ バイバイ‥」の声を残して裕一郎君が息を引き取ったのは、午前零時50分のことでした。弟の康弘ちゃんも嘔吐が始まり、父親の一久さんらの必死の励ましの中「ポッポッポ」と鳩ポッポの歌をかすかにうたいながら翌日、未明の4時30分幼い生命を閉じたのです。

5,二人の幼児の母親は 
 裕一郎君と康弘ちゃんの母親の和枝さん(当時26歳)も、全身8割にも及ぶやけどで昭和大学藤が丘病院に運ばれました。一方月以上も絶対安静の危篤状態が続きました。
 ようやく死の淵から脱した和枝さんを待っていたのは硝酸銀の薬浴でした。全身やけどで皮膚が出来てこないので、化膿を防ぐための治療です。和枝さんの全身に激痛がはしり「殺して−」という悲鳴が病院中に響き渡りました。そしてさらに、その後も皮膚移植手術などの手術が繰り返されました。
 「裕くんと康くんは他の病院で頑張って治療を受けている」という言葉を信じ、それを励ましとして厳しい治療を乗り越え少しずつ癒えてきた和枝さん。
その和枝さんに愛児の死を知らされたのは、事件から1年4カ月後のことでした。
 その時、和枝さんは変わり果てた2人の愛児の遺骨に対面し、遺骨を抱き締めたまま涙がなくなるまで泣き続けました。
 そして、泣いてもどうしょうもない残酷な事実を前にして、「子どもの分まで生きる‥」と、固い決意をしたのでした。
 その後、きびしい治療にも必死で耐え抜いてとうとう、松葉つえを使って歩行することも出来るようになったのです。
 和枝さんは皮膚の深くにまで及んだ火傷の治療のため、不自然な体位を余儀なくされ、ジェット燃料の火炎を吸い込んだことなどもあって、呼吸器障害などを併発し病院への入退院が繰り返されました。
 しかし、一進一退の状態から徐々に体力も回復していきました。
 そして、和枝さんは事件の経緯を振り返るにつけ、国の不誠実な態度に怒りを覚え、抗議の声も強くなっていきました。
 国は、和枝さんからの度重なる治療についての訴えや抗議の電話をまともに受けないばかりか、和枝さんを精神病者扱いにし、家族にも適切な説明もしないまま、精神病患者だけを収容する国立武蔵療養所に転院を強要したのです。

6,和枝さんの死
 
 国立武蔵療養所に転院して間もなく、1982年(昭和57年)1月24日の夜、和枝さんは窓には鉄格子がはめられた病院の一室で呼吸困難に陥り、意識不明のまま翌々日の26日午前1時45分窒息死したのです。
 無念の死でした。
 そして、それは、ジェット機墜落事件から4年4カ月目の事でした。

「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」より転載

<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会


                     「愛の母子像」港の見える丘公園→
                    親子3人の死を悼み建立された。
                          HP作成者の撮影

      なくなれ!厚木基地のページに戻る