カウンセラーから見た森田神経症

 

                                      高岸 美恵子(鶴井医院)

はじめに

 

一昔前に比べると、最近カウンセリングが注目を集めるようになってきています。色々なところでカウンセリングという言葉を聞く機会が多くなってきています。ブームといった感じを受けることもあります。カウンセラーになりたい人も増えてきているし、カウンセリングを受けたい人も増えてきています。衣食住足りて、心の時代となってきたことによる現象かもしれません。

しかし、巷ではカウンセリングに対する誤解も結構あるように思います。社会的な事件や問題が起こると、カウンセリングを受けさせようとする動きが増えてきている印象を受けます。というのもカウンセリングを受けると問題が解決する、悩みが解決すると思われているような、何かカウンセリングが万能のような印象を受けることがあります。世の中には解決の難しい問題はたくさんあります。その中の心が絡んだ分野にカウンセリングが救いの神みたいなイメージで受け止められているような感じを受けたりします。でもそんなに万能なものではありません。

皆さんの中でカウンセリングを受けた方はいらっしゃいますか。受けてみていかがでしたか。正直な感想を伺いたいのです。よろしかったらそんな事も後ほど伺わせて下さい。私どものところでも、本当に良かったと言ってくださる方は勿論いますが、何かどうもと言う方もいます。でも、以前に比べるとカウンセリングを受けることに随分、抵抗は少なくなってきています。

今回、「カウンセラーから見た森田神経症」というテーマで如何ですかというお話があり、簡単に「はい」とお受けはしたものの、「待てよ、これは結構難しいな」と気付きました。何故かというと、「森田神経症とはどういうものか」、「神経症とは何か」、これがとても難しいテーマだということに改めて気付いたわけです。発見会に参加されている皆さんがすべて森田神経症かというと、そうでもなく結構幅広くいらしていると思います。症状的には、不安タイプ・強迫タイプ・対人恐怖タイプ・身体の異常を訴える心気症タイプに分類できそうですが、とらわれの状態とか物分かりの良し悪しは、その人の症状の成り立ちや性格と深く結びついていて、本当に一人一人の皆さん違います。

森田療法は不問療法といわれるくらい、過去を問わない・愚痴を聞かない、それが大切な点であるのに、その森田とカウンセリングがどう結びついていくのかということに改めて気付いたと言いますか、今まであまりそんな視点で考えていなかったということに気付いたわけです。これは何か見えてくるかなと考えてみました。

カウンセリングと言うと、まず第一に受容・傾聴という言葉と結びついているようです。最近、発見誌でもカウンセリング関係の特集が組まれたりしていているので、皆さんの中にはカウンセリングの何たるかをご存知の方も多くいらっしゃると思います。でも、いくら読んでも、いくら聞いても、わかったようでわからない。どうすることが受容で、どう聞くことが傾聴になるのか、あるいは聞いているだけで良いのか……森田は聞き過ぎてはいけないし……大変戸惑っている方もいると思います。

本を読んだり聞いたりして得た知識というのは、なかなか自分のものにはなりません。身に付かないのです。体験して、経験して身に付くのですね。私もいくら本で神経症について読んでも、それで分かったという気にはなりません。本を読んだだけではすぐ忘れる場合もあるし、読んだだけで自分のものになるのなら、こんな有り難いことはありません。そうはいきません。実際に患者さんと接してその方の考え方、感じ方を知って、それを自分の中で咀嚼して始めて自分の知識になります。自分の中に無い物は、頭の理解だけでは自分の物にはなりません。だから、カウンセリングも自分が受けてみて、その効果を味わって分かるのかも知れませんが、まあここはお付き合い下さい。

 

時代の流れに伴う若者の変化

 

森田は過去を問わない、現実を大事に、今を生きようという考えです。我慢・がんばり・忍耐・努力の教えです。なのに、最近のカウンセリングだとか癒しとかの言葉が発見誌でも見られるようになりました。この2〜3年でしょうか。初めの内はちょっとビックリしました。何故かと言うと、やはり私の中では森田とカウンセリングは相容れないものだという認識があったようです。それで少しビックリもしましたが、「ああーやっと森田にも今の流れが来たか」と新鮮な感じを受けたことを覚えています。カウンセリングをしていてもそうなんですが、患者さんは変わります。人それぞれ違うのは当たり前ですが、そういう意味ではなく、訴える内容・受け答え方の変化が出てきたり、今までのやり方が通じなくなってきたり、それまでにはなかった訴えが出てきたり、色々な変化が認められます。

最近、何人か若い子に続けて訴えられて困ったなと感じたことがあります。鬱病ではありませんが、『死にたい』、『何のために生きているのか分からない』、『どうして生きていなければいけないのですか』と訴えます。今の子は自分の思い通りにいかないとすぐ死にたくなるのですね。生に対する執着が希薄なのでしょうか。自分の描いていた人生が手に入らなくなると、もう生きていたくなくなるのです。その人生とは、良い大学に入ることだとか、仕事で認められるとか、綺麗に痩せることだとか、いわゆる絵空事を現実に置き換えて、それが手に入らないともう絶望してしまう。こういう感じの若者が出て来ています。多分死なないだろうとは思いますが、目の前でそう言われるとやはり言い方は考えます。表面的なごまかしは通用しません。こういう若者はいわゆる自己中で、人とのつながりが築けない人達ですから、親が悲しむとか、命は地球より重いとかといったって受け付けてはくれません。だけど、その場は真剣勝負です。

必死で無い知恵を振り絞って考えるわけです。その場を必死で過ごして、後で色々と反省し、これで良かったのか、もっと別の答えがあるのだろうかとか、やはり色々と考えてしまいます。そのために後で勉強したり、本を読んだりして考えます。それで次に患者さんにぶつかって、試行錯誤を繰り返しています。そうした繰り返しでこちらも色々な知識が身に付いていきます。

しかし、今の若者には、押し付けはダメ、説教はダメという感じがします。そして我慢ができない、頑張ることは苦手、無理が利かないと言えば、身も蓋もありませんが…勿論、世の中の多くは健全な若者達です。少し視点を変えると、まだまだこの世の中捨てたものじゃないと思うことも多々ありますが、それでも日々接している若者達を見ていると、この世の中本当に大丈夫?と言いたくなることがあります。こういう悩める若者達がいわゆる癒し系に入ってきています。

 

社会的変化の影響の重み

 

だからその発見誌を見た時に、やはり発見会も時代の流れを無視できないのだなと改めて思いました。実際、発見会に来る若者の多くは変ってきたという話は聞きます。今までのやり方では通用しなくなっている。

実は、変ったのは若者だけではなく、私達も変ってきています。時代の流れの中で、少しずつ気が付かない内に変っているのです。逆に変らないことは却って家族や社会との不適応を起こすことになって、神経症の原因にもなったりするのです。自分自身のことを振り返ってみても、この20〜30年随分変ってきたな、いや、変えられてきたなと思っています。それが良い方向に向かう変化なのか、逆にいい加減になってしまったことなのか、よくわかりません。だけど、変らなければ子育てにしろ、患者さんとの関わりにしろ、やってこられなかったことは事実です。必要なところだけが変るだけでは済まなくて、変りたくないところでも世の中のながれの中で変らされてしまうことが多くあります。

一番の情報源はテレビでしょう。全国で同じ物を見て、同じニュースを聞かされて、同じブームに乗せられて、それを望まなくてもそれしかない。これが恐いのだなと思います。だんだんと否応なく流されて感覚が麻痺して慣れていく。こういう状態が嫌ですね。だから、仕事がらそういうところには敏感でいたいと思っています。

 

カウンセリングの効用

 

森田神経症については、私達より皆さんの方が詳しいのです。それは本当にそう思います。学習会を通じても、集談会でも、発見誌でも勉強していらっしゃる。年配の方だけではなく、若い人でも、初めからピタリと森田にはまる人は大勢います。そういう人にはカウンセリングの必要はありません。

私どものところ(鶴井医院)では、主人が精神科医で森田療法を積極的に診療に取り入れています。まず、初診で外来に来られた時に、この方は森田神経症だなと診断すると、その診療場面で森田療法の考え方や神経症のからくりを説明します。なかなか説明がうまいので多くの方が納得するようです。そこで治療にのるか、あるいはそれだけで事足りて来なくなるような方達は、診察時には簡単な問診ぐらいの方が良いようです。しつこいカウンセリングは要りません。却って根堀り葉堀り聞かれることが、逆効果になることさえあります。

カウンセリングに回ってくる方は、そこで納得しないのです。私はカウンセリングをする時は、先入観は持ちません。森田神経症か、そうでないかということは考えません。まず今お悩みのことを聞いていきます。カウンセリングで良くなっていく人は、言葉で話しができて自分のことを伝えられる人です。上手に話せる必要はないのです。話し易いようにまとめたり、問題点を明確にするお手伝いをしたりすることはカウンセラーの仕事です。だから、きちんと話せることは必要ではないのです。話すことによって問題点が見えてきて、その対処の仕方がわかって、気持が楽になってきたり、視野狭窄で周りが見なかったのが風通しが良くなって悩みの重さが軽くなったり、周りが変ってきたりします。周りが変わることはつまり、本人が変ったということです。これがカウンセリングの効果です。

カウンセリングで楽になっていく人は、現実の中の悩みで悩んでいる。仕事のこととか、人間関係とか、親子関係、夫婦関係のこととか色々です。でもとても混乱していてどうして良いのかわからないのです。こうした場合は、話をすることによって混乱が整理されてきて、何が大事で何が余計なことかが見えてきます。気付きがあり洞察があります。心にしこっていた重荷をカウンセラーに預けることで楽になり、行動の変化が起こります。話をすることって大切ですね。話をすることで気持が楽になる。こんな経験を皆様は皆お持ちですね。

私はカウンセリングの大切な役割に、自分の物語を語るという役割を考えます。「あなたは大切なひとです」、「あなたの側に寄り添っていますよ」、「関心があります」、「あなたのことが知りたいです」、「あなたのお話を聞かせて下さい」、これが受容・傾聴ということだと思います。一般の人間関係の中ではなかなかここまでの濃密な関係は築けません。信頼関係が育つ、何を言っても許される、批判されない、馬鹿にされない、関心を持ってもらえる、分かってもらえる、あるいは、分かろうとしてくれる。こうした関係の中では、安心して自分と向き合えます。日常生活の中では見えなかった自分が見えてきます。

人は皆、自分の物語を持っています。自分が主人公の物語です。しかし、日常では逆に自分の存在が希薄になっています。なかなか個人に注目してくれません。他人(ひと)のことなど構ってくれません。でも、結構みんな、人に自分のことに関心を持ってもらいたい気持があるのです。特に混乱している場合は、周りが見えません。自分のことで精一杯で他人(ひと)のことどころではないのです。自分をどうにかしなくてはどうしようもない。こういう時は、自分を物語ることで見えてくることがあるのです。

カウンセラーの解釈、支持、援助によって、混乱の原因、自分の気持に気付いていきます。話すことで気持が落ち着き楽になり、考え方が変化します。

 

森田神経症へのカウンセリングの場合

 

しかし、神経症の方は、そう簡単にカウンセリングには乗ってくれません。カウンセリングでお会いする方は不安タイプの方や対人タイプの方が多いのですが、よくお話して下さいます。しかし、雄弁なのは症状のことですね。他のことでは話がなかなか深まらない、極端に言えば、他のことなどどうでも良いのです。これが特徴かなと思います。悩んでいること、辛いこと、それは症状の事なのです。しかし、症状のことをいくら話しても良くならないことは、皆さんお分かりですね。というか分かっているつもりなのに、本当はなかなか分からないところでもあるのです。そこをどのように崩していくのか、ここがとても難しいところです。

この場合のカウンセリングの目的は、症状にとらわれえている限り問題は解決しないことを分かってもらう。本当の問題は症状を取ることではないということを理解してもらうことが第一歩です。ここで発見会を紹介することが多いのです。悩んでいるのは自分だけではないこと、他にも同じ悩みを持っている人達がたくさんいること、仲間をつくることは大切だと言うことを伝えます。

では、症状のことが問題解決でないとしたら何が問題なのか。何故、症状にとらわれるのかを話していくことになりますが、これが結構大変なのです。何が大変かというと、一人一人原因が違うからです。そして、症状のことは雄弁でも他のことは関心がいかない。他のことで話が膨らまないのです。私がお会いするのは女性の方、主婦の方が多いのですが、夫のことや子供のことより症状が一番の問題になっています。

そこの発想の転換を図るには時間がかかります。症状は観念が作り出したもので、現実のことではないから、現実に目を向けましょう、今を大事にしましょう、よくこのようにお話をします。それがなかなかわかってもらえません。くよくよと過去のことや将来のことばかりです。過去のことを後悔し、未来のことは心配する。あの時はこうすれば良かったとか、こうしなければ良かったとか…、また今は辛いけど、あの昔は輝いていた、あの頃に戻りたいと過去にしがみつくが、未来については予期不安で一杯です。巧くいくわけがありません。

あそこに行けばまた倒れるような気がする、人と巧くやれないような気がする、緊張して巧く喋れない気がする、今の自分は駄目で今は不安で一杯だ、こんな自分は嫌だ、この今の不安から逃れたい、今から逃れたい……etc. 

これでは今を生きることはできません。地に足が付くから安心があるのです。大地に立つから安定するのです。地に足を付けるのは今だけなのです。過去にも未来にも立つことはできません。しかし、今現在が不安な人にとっては今を生きることが良くわからないのです。不安があるから症状にとらわれます。症状は現実にあるのではなく観念が作り出したものです。実際にそうなんだけど、言うは易し、行うは難しですね。

症状とは一体、何なのでしょう。ここでお断りしておきたいことは、森田理論を説明してパッと理解してくれる人はたくさんいらっしゃいます。《とらわれ》が現実の仕事なり、遊びなり、楽しみなりに入れ替わり、観念の不安が現実の安心に変る。ここを理解して行動できる人はカウンセリングにはきません。

 

「症状」からなかなか抜け出せない理由(わけ)

 

カウンセリングに来る方は、そこのところがうまくいってない人です。森田神経症によく似ているのですが、似て非なるものと申しましょうか、次のような方が多いのです。

この方々は頑固です。譲らないし、変らない。そこをほぐしていく作業が必要となります。時間が掛かります。始めは生い立ち、家族関係、病気の成り立ち等から順々に聞いていきます。私の受けている感じでは、最初は話しが広がらず、自分からこういう子だったとか、こういう生活だったとか、進んで色々話してはくれません。こちらが問い掛けると簡単に答えるという感じです。話が繋がっていかない、膨らんでいかないのです。自分の物語を語れない。これも特徴かなと思います。

症状の悩みに人格が乗っ取られており、「趣味を持とうよ、楽しもうよ、何かしようよ」と言っても、やはりできません。「症状が辛いから、不安だから、これが無くならないとできない」となかなか先に進みません。毎回、毎回同じ悩みを繰り返すので、『 ちょっと、受容も傾聴もできないよ 』と言いたくなる感じになることが多いのです。なかなか共感できません。症状のことにとらわれている限り、逆にそこから抜けられないということを伝え続けます。抜けるためには、とらわれを別の事に置き換えるという話を根気よくしていきます。

とらわれにはまって、なかなか良くならない場合の特徴を思い付くまま挙げてみます。( 独断と偏見をお許し下さい。)

 

1)良くなったという事を認めない。明らかに改善していてもなかなか納得しな い。十の内三つ良くなっても、七つの悪いところを挙げる。十の内、七つ良くなっても、まだ三つ悪いと言う。なかなかそうですねと同意してくれない。

2)不安探しをする。症状が薄れて楽になっていくと、新しい別の不安を探している。その多くは枝葉末節なことで、あまり重要でないことが多い。不安の無い状態が不安なのかなと思うことが度々あります。うまくいった経験が無く、また嫌な思いをするのが恐いから先に諦めてしまうのかなとも思うことがあります。「うまくいく。大丈夫だ」というプラス思考がとても苦手です。

3)ヒトに嫌われたくないと思うわりには、本人はヒトに対して不信感が強い。ヒトが信じられない。この場合、特定の個人から嫌われたくないというわけではなく、漠然としたヒト一般です。他人を信じられず、他人に安心感を持てないから、いつも一緒にいてもらっても不安です。その不安を埋めてもらうために相手の承認を求めてしまう。その裏側にあるのは、自分に対する不信感です。「自分は駄目だ、価値が無い、魅力が無い。だから、他人に好かれるわけがない。」と心の中では思っている。自分の気持を見つめてみれば自ずとわかりますけど、他人に対する評価や感情などは決して一定したものではなく、結構その時の気分や状況によって変ってくる。元々自分はそんなに他人のことには関心も責任も持ってはいない。他人もまた同じです。自分以外の人に対しては普通の関係では関心も責任も持ちません。相手に嫌われまいとして、そんな不確かなものを求めること自体混乱のもとになるのです。自分に自信がないから必死で他人に安心を 求めてしまうけど、元々当てにならないものに求めているので結局安心できないのです。安心感を得るのに必要なものは、自己信頼です。

4)執着心が強く、なかなか流せず捨てられない。自分の言ったこと、やったこと、他人に言われたことやられた事をいつまでもぐずぐず考えて、ああでもない、こうでもないと自分でストーリーを作って、どんどんそれを膨らませて、その中で悩んでいる。

5)考え方が全か無か、白か黒かと両極端である。巧くいって成功すればOKだが、巧くいかなければ駄目なのです。絶対大丈夫でないと不安で手が出せないという考え方です。これでは何もやれません。何事にも絶対なんて保証はありません。

6)「また気持が悪くなるのではないのか」、「また不安発作が起こるのでは」といった予期不安が強く、「できないに違いない」とか「巧く行くわけがない」と結果を先取りする。

  

ずいぶん勝手な事を一方的に述べたようにおもいます。でも、今言ったようなことは実際カウンセリングを通じて私が実感として得たことです。

 

何故とらわれ、それにはまるのか。

 

  これについては色々な方が色々なところで、それぞれの考え方を述べておられます。原因は一つではなく幾つもありますし、また色々な考え方があります。神経症という大きな象に、目の見えない人達が鼻に触り、足に触り、それぞれが象とはこういう形の生き物だと述べているような感じがして、どう表現してもその実体を正確に言い当ててないような気がしますが、私もここで一つの考えを述べてみたいと思います。

  人それぞれ色々な事情はありますが、共通して認められるパターンはマイナス思考です。何をやっても巧く行かない。楽しくない。前を向いても良いことは無い。これでは気持が虚しいです。寂しいです。虚しかったり寂しかったりばかりだと不安は強くなります。人は不安の気持でいつづけることはできません。そこから逃げようとします。不安を埋めるものを探そうとします。他に埋めるものが無ければ、自分の中にあるもので埋めることになります。でも、良いイメージを持たなければ、いくら探しても良いことや安心できるものなんて見つかりません。マイナスでマイナスを埋めることになります。そのマイナスが不安発作であったり、体の変調であったり、人間関係であったりするわけです。だから少しも不安は無くならないのです。取ろうとしたり、逃げようとしたり、やればやるほど益々不安は強くなるし、苦しくなります。

 

どうすればよいのか

 

記憶は繰り返し反復するほど強く、深く、刻み込まれて抜けなくなる性質を持っています。症状にとらわれて、それをどうにかしようとやりくりするということは、計らいに通じますが、まさにマイナス記憶の刷り込みをし続けていることになるわけです。それも多くは駄目だということで実際には何もせず、頭の中だけでやりくりし続けるのです。

「世の中って恐ろしいところだ」、「他人は信用できない」、「いくらやっても報われない」、「巧くいかない」、「他人に嫌われている」、「悪口を言われている」、「自分だけ仲間外れにされている」、「心臓がドキドキする」「めまいがする」、「ふらふらする」…… 色々な思いの中だけで、観念の中だけで苦しんでいるだけで、実際は現実逃避をしています。事実すごく苦しみ悩んでいるのだけど、その多くは観念のやりくりの中で苦しんでいます。

  私達から見ると、「このことは無駄なことだな、もったいないことだな」と思うのです。苦しんだり悩んだりして、そこを超えることが人を成長させます。逆に観念の中だけの苦しみは、自分を成長させないのです。何故なら、悩みの相手、戦う相手が実体のないものだからです。

成長するということは自分の殻を破ることでもあります。殻を破るためには、自分以外の相手が必要です。それも観念のような実体のないものが相手ではそれができません。だからいくら神経症で悩んでも症状を相手に戦っても、本人は少しも成長できないし、自信にもつながりません。元々実体のないの相手に勝つことは不可能なことです。経験(戦い)の積み重ねが生きてこないのです。

自信は現実の中で何かをやることによって体験を通じて身に付きます。経験して自分のものになっていき、自分がやれたことが自信になるのです。だから、現実から逃げないことがとても大切になります。失敗もするでしょう。失敗があるから成功があるのです。失敗のない成功は有り得ないのです。

二律背反といって物事には必ず二面性があります。悪がなければ善は存在しないし、不快がなければ快は存在しないのです。苦があるから楽があるのです。

失敗は恐ろしいことで、恥ずかしいことかもしれません。でも感情は流れます。いえ、流しましょう。嫌な感情はどんどん流しましょう。工夫や努力は失敗の産物です。観念の中の恐怖を現実の中で見直して、案ずるよりも生むが易し」を体験すること、そのための試行錯誤の繰り返しをしていくことがとても重要です。

その中で記憶の修正をしていきます。この作業は逆洗脳のようなことですから、それはそれは大変なことで、時間のかかることです。わかっていたようでも、何時の間にか、いつか来た道にはいりこんだり、そんなことの繰り返しが続きます。

だけど、それでもお付き合いいただいていると、段々に少しずつ変化しているな、と実感します。
     以上。