ホームページへ霊性について目次前のページへ次のページへ

自然な感情を持ったまま育つと泣くことも怒ることも許されます。自然なままに任せるとこういった感情はたったの15秒で解消されてしまいます。…6歳ごろになると知性の次元が開花してきます。そして思春期に入ると霊的、直感的次元が芽生えてきます。いったんこの次元が芽生えてくると自分がどこへ向かえばいいのか。自分が一体何になりたいのかがわかるようになり、自分自身の内なるドラマ、内なる声にしたがっていくようになります。そしてもはやいつ死ぬかなどということには意味がなくなり人生がもたらすありとあらゆることを受けとめる準備が整います。不安も猜疑心もありません。死につつある患者の部屋に入っていっても「患者になんといえばいいのだろう」とか「こういわれたらどうしよう、ああいわれたらどうしよう」と考える必要はありません。自分自身の直感に耳を傾ければいいのです。必ず自分の直感が正しいことがわかっているのですから。

霊的次元が開花するとすばらしいことがたくさん起こります。いろんな宗教のいっていることが真実であることに気づくのです。個人的な考えですがさまざまな宗教は外の形や言葉が違っているだけで同じことを説いていると私は思っています。何かが必要であれば求めるしかないことが分かってきます。そしてほんとうに必要ならば与えられます。ただ単に欲しいだけであれば与えられません。でも必要としていれば与えられるのです。

このことに関していい例があります。私がカリフォルニアで講演を何日かした後のことでした。次の朝までにヨーロッパにいかなければならなかったので飛行機の出発を空港で待っていました。ちょうどみんなが搭乗の準備をしているところに若い女性がやってきて「ロス先生!」といいながら私のブラウスをひっぱるのです。私は「違う、私の名前はメリースミスです」と言いたかったのですが、そうは言わずただ黙って心を開きませんでした。それでもその人は
10月に9歳の息子を亡くしたばかりだと必死になって話しかけてきました。息子のお葬式が済んで二週間後、今度は11歳の娘がガンで助かる見込みがまったくないと宣告されたというのです。

彼女はシンボリックな言葉ではなく全く単純な英語で「あなたの助けがほんとうにほんとうに必要なのです」といっていました。私は飛行機に乗ってヨーロッパへ行くか、それともこの一組の夫婦の力となるか、難しい決断をせまられました。そして絶望の中で私は思ったのです。「ああ、たったの
1時間、今ここで1時間あったら」その気持ちが消えた瞬間「83便は1時間の遅れとなりました」という場内放送がありました。誇張しているのではありません。でも自分の霊的な次元にふれ、必要なときに助けを乞う謙虚さをもてば人生はこういう形で運ばれていきます。

どうしてこういったことが死につつある患者にたずさわっていくときに重要なのでしょうか?人間の素晴らしさは二つのものを授かっているところにあります。一つは世界中に通用する普遍的な言語です。アボリジニー、エスキモー、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、仏教徒、ユダヤ人、カトリック、それにプロテスタントとさえも話をすることができます。これは本当に普遍的な言語です。これが、あなたが持って生まれたすべてを知っている永遠の不死不滅の部分なのです。

子どもが大人になる前に死んでしまうと…たとえば
3歳で白血病にかかり、9歳で死ぬと…あるいは視力や肉体の次元の何らかの部分を失ったとしても、そこで与えられる贈り物は長い目で見ると失ったものよりずっと貴重なものです。これは普遍的法則です。幼くして亡くなる子どもは早い時期に直感的、霊的次元が発達します。ですから死につつある子どもはみんな自分が死に向かっていることを知っているだけでなく、あなたが直感的、霊的次元の開いた人であり子どもをもてあそんだり子どもに嘘をつく人でないことがわかれば、そのことをあなたに伝えようとします。

子どもは先生です。瀕死の患者の言葉、シンボリックな言葉の世界の最良の先生です。細かいことがあまりよく伝わらないのは十分承知していますが、ここで死の間近な
5歳の男の子の普遍的なメッセージをお伝えしたいと思います。これは、詩や踊りや音楽と同じ普遍的なメッセージです。すでに臨死体験のある子で知的には脳幹腫瘍の意味は分かりませんが、脳腫瘍で死ぬことは知っています。その子は私たちに死とはどんな感じかを教えてくれようとするのです。私に絵を送ってきてくれました。虹があってその虹のはしっこには美しいお城があり、そのとなりで太陽が笑っているのです。臨死体験から戻ってきてお母さんにいったそうです。「これが神さまのクリスタルキャッスルで笑顔のお星さまが踊りながらぼくに、お帰りなさい、といってくれたの」これが5歳の子どものことばです…あなたに聞く用意があるならば。

臨死体験をしてからこの子はもう死ぬことを恐れなくなりました。でも一つだけ未解決の問題があったのです。かなり真剣な調子で電話をかけてきて「エリザベス、ぼくどうしても知らないと困るんだ。ぼくが死んだらカサールは待っててくれるだろうか?」というのです。カサールとは
2週間前に死んでしまった愛犬のことです。医大ではこういう質問に答えるトレーニングは受けません。

でも死につつある子どもたちにたずさわった体験を通して、その子の質問に答えることができました。私に唯一いえることは、ほしいものは手に入らなくても必要なものは手に入るとその子にいったのです。もしカサールが本当に必要ならばちゃんと頼めばそこにいる、と私はいいました。その子は
23日してまた臨死体験をしました。そしてとても興奮して電話をかけてきました。カサールがそこにいるどころか、しっぽまでふっていたというではありませんか。

死につつある子どもにたずさわっていくのは陰鬱な仕事ではありません。そのことをわかってほしいと思います。どうやれば死や死ぬこと、つまり生きることを恐れずに生きていけるかを教えてくれます。人間が生まれるときに授かるもう一つの贈り物は自由意志です。自由意志はありがたいものとしても呪われたものとしても使うことができます。競争心や物質主義、さらに愛、他の国の愛が買えるという幻想、武器や戦争に対する支持も買えるという幻想が人類に何をもたらすかを私たちは見てきました。しかし同時に自由意志の力を人類のために使うとどうなるかも知っているはずです。死に瀕している子どもや患者たちを何年も見ていると、死とは何か、この素晴らしい子どもたちはどうなるのか、などと自問自答してしまいます。メーダネックの子どもたちはどうなったのでしょうか?広島、長崎の子どもたちはどうなったのでしょうか?

メーダネックで子どもたちが最後の夜を過ごした木造のバラックを見にいったときから私の内側で知らず知らずのうちにその研究が始まっていました。そのバラックの板壁にはひっかききずのようなパパやママへのメッセージのほかに小さな蝶々のシンボルがいたるところに刻み込まれていました。私はその頃、蝶々の意味を知りませんでした。でも人間は蝶のことがわからないし、蝶は人間のことがわからないという詩に感動していました。それが
1945年当時の私でした。

ところがその後の
25年間で人間は蝶を理解し、蝶も人間を理解することになるのです。死が近い子どもたちとの仕事で死んだらどうなるの?と聞かれると私は蝶々のシンボルを使います。眠ってしまうんだとはいいません。天国へ行くともいいません。普遍的な言葉を使って、あなたはあなたが思っているようなものではないと教えます。「からだはまゆのようなもので、そのまゆが修理できないぐらいこわれてしまうと蝶々を解き放つの、それがまゆよりも素晴らしいことだってわかってもらえるとうれしいな」というのです。

死や死後の生を研究しているものにとって普遍的な言葉を捜し出すのは大変重要なことです。なぜなら主観的な死や誕生の体験は人類の普遍的な体験であり文化や宗教のバックグラウンドとは何の関係もないからです。人間が霊的になれば宗教の違いなど気にしなくなります。ご存知のようにキリスト教には
2万もの分派があります。私からすればそれはもうクリスチャンとはいえません。私たちが今後学んでいかなければならないのは私たち誰もが肉体、感情、知性、霊性から構成されている同じ人間だということ、そしてお互いに助け合う努力をしなければならないということです。

互いに判断したり批判したりしないで互いが自分の霊的次元、自分の内なる知識を聞く努力を励まし合い、自分がどこに向かっているのか、自分がどこにいるべきかを見出し、人類のために尽力することです。ほとんどの人が死んでしまってからこのことに気づきます。でも死んでしまってからではやっぱり少々遅すぎるようです。

私は世界中の
2万人の臨死体験を研究してきましたが時間がなくなるといけないので簡単に要約します。これがあなたの肉体、あなたのまゆ、つまり物質エネルギーだとすると意識を存在させるには脳の機能が必要です。この肉体がどういうかたちにせよ壊れると、蝶が解き放たれます。

この第
2段階は霊エネルギーの段階でまだ操作可能な状態で自覚もそのまま残ります。具体的にはたとえば交通事故で死んでしまうと、からだからあなたの永遠で不滅の部分が解き放たれます。からだは車の中に閉じ込められたままかもしれません。でもあなたは事故現場の何メートルか上に浮きあがって、まわりの人たちがいっていることだけでなく、あなたのからだを車から救出するのに発煙筒が何本使われたかまでわかります。でも、その自覚はさらに一段高いもので通りすぎていく車の運転手の考え、なぜこの事故現場にとどまれないかという弁解さえわかります。つまりこの第2の段階であなたはもう一度完全になるのです。

こういった体験をした手足が不自由で車椅子の生活をしている多発性硬化症の患者がまずいうことはもう一度歌ったり踊ったりすることができたということです。で、私が考えついたこれを立証する唯一の方法は
10年以上感覚がまったくない、目の見えない人に聞くことでした。そこで私はそういった体験をした目の見えない人に何が見えたか聞きました。すると私のセーターの色、ネクタイのデザインどんなアクセサリーをつけているかまで教えてくれるのです。これが酸素欠乏症によるものだといえるでしょうか?

2段階で人は再び完全になりますがその状態はリアルではあってもリアリティではなく目を閉じたまま夢の中で見るようなものなのです。とてもリアルだけどリアリティではないのです。この段階では人間が一人ぼっちでは死なないこともわかります。人間をロケットに乗せて宇宙の果てまで送りこみ、もし目標がはずれたとしても、その人の肉体が生きていられなくなった瞬間、その人はもはや一人ではなくなっています。宇宙のどこへでも行けるようになるからです。アメリカで死んで東京にいる両親のことを考えるとその瞬間に思考の速度で東京であれ京都であれ考えたところならどこにでも行けます。

一人ぼっちで死なないもう一つの理由はあなたより先に亡くなった人たちがあなたを待っているからです。カリフォルニアの人で結婚を
9回していても大丈夫です。この物質エネルギーの場を離れてしまえば唯一すべてを支えるのは愛だけになります。真の愛、無条件の愛。おばあちゃん、おじいちゃん、おかあさん、兄弟、姉妹、あなたが一番愛した人たちには必ず会うことができます。そしてその再会が済むと人間が操作できない領域に入っていきます。

人間は物質エネルギーと霊エネルギーを操作することができます。自由意志を授かっているのでそれを肯定的なものにも否定的なものにもすることができます。臨死体験ではそこまでしかいくことができできません。臨死体験をするとこの恒久的な移行の際に何か向こうにその移行を意味する光を見るかもしれません。トンネルや橋や門のむこうに光を垣間見るのです。これは神から発せられた操作することにできない霊的エネルギーです。この光を見たものはすべてを知ります。臨死体験ではちらっとしか見せてもらえません。それ以上耐えられないために帰ってくるわけです。

もしそこで死ねばまゆと蝶とのつながりが切断されてしまいます。幕が降りるのです。愛、光、神、キリストなど人や大陸によって呼び方は違いますが、それをどう呼ぼうとこの光を前にするとあなたは完全に愛と慈悲と理解に包まれてしまいます。否定的な気持ちはここでは通用しません。ここで初めて人間が一人一人完全なまま必要な知識をすべて備えて生まれてくることを認識するのです。そして自分の人生とは生きている間、瞬間瞬間、自分がくだしてきた一つ一つの選択を総合したものに過ぎないことに気づきます。この場合の選択ということばは行動だけを意味しているわけではありません。言葉や心に浮かんだことすべてが含まれるのです。

私たちが何を優先すべきかに気づかず、子どもたちが自殺してしまうのは悲劇です。ナチス・ドイツ、広島、長崎、ベトナムを通り過ぎないと一つの家族としての人類が目を覚ますことができないのは悲劇です。揺さぶり起こされないと見ることを学ばないなんて私たちは狂っているとしかいえません。

そして今度はAIDSです。日本ですでに悲劇となっているかどうかは知りませんがいずれそうなります。アメリカには何千人ものAIDS患者がいます。刑務所はAIDS患者でいっぱいです。ニューヨークの市立病院にはAIDSで死にかかっている3歳児が60人もいます。AIDSの赤ん坊を産んだことを知らないまま母親が市立病院に赤ん坊をおいていくのです。潜伏期間が長いので市立病院においていって親は消えてしまうのです。さわりたくもなければ子どもを育てたくもないからです。

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