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川幡政道先生の比較的わかりやすい文章です。と言っても、harabinにわかるかというと、どうでしょう。

ホスピタリズムの心理


 
 先日、前をいく女子学生の会話を何となく聞いていたら、「恋人はいるんだけど淋しいの、何か物足りないの」という言葉が耳に飛び込んできた。恋をしていればゴムマリのように弾んだ心になるはずなのに、淋しいというのはどういうことなのか。若い女の子はどんな恋愛をしているのか、どんな育て方をされたのかと思って空想してみた。
 以前、白ネズミを2つの条件で飼育してみたことがある。1つの群は餌を制限し、他の群は餌を十二分に与えた。3ヶ月もすると、後者は前者の2倍ほどの体重の肥満ネズミになり、両者の行動に顕著な差が見られるようになった。
 1日に1回餌が与えられダイエットネズミは、自分が人間に世話をされていることが理解できるのか、飼育者が現れると歓喜し、ケージの金網を揺すり、さかんに動き回って自分の存在をアピールしていた。新しい環境の中においてみると、軽やかに動き回って積極的に周囲の状況を探索した。外界に対して好奇心の旺盛なネズミになった。
 これに対して肥満ネズミは、食べたいときにいつでも餌があるためか、飼育者にまったく関心を示さず、餌や水を補給しているあいださえいつもケージの隅で寝ていた。惰眠をむさぼる肥満ネズミを新しい環境の中においてみると、床にへたり込み、失禁脱糞して、その場から動けなかった。肥満ネズミはいつも寝ていると言ったが、実は眠っているふりをしているだけで、実際は飼育者の立てる物音に内心ビクビクしていた。小さな物音がしただけで、からだをビクッと震わせた。無関心を装うネズミは、実は飼育者を恐れる臆病なネズミだった。自閉症ネズミとも呼ぶべき、外界を恐れるネズミになった。
 戦後、欲しがるものを十分に与え、欲求不満を経験しないようにすれば、理想的な子供に育つという考え方が流行したが、皮肉なことにこうした育児法で育てられた子どもは、餌を十二分に与えられたネズミと同じように、何か意欲のない若者になることが多い。一般に親と対立した経験が乏しいと、未知の環境におかれたとき、他人を恐れ、自分の殻の中に引きこもりやすくなるようである。
 とはいえ、もちろんくだんの女子学生がこのタイプのパーソナリティーの持ち主だと言っているわけではない。だが、まったく関係ないかと問われれば、イエスとは答えにくいところもある。というのも、彼女は自分の居場所を喪失した不安から眼をそらすために、あえて恋愛に走り、淋しさに耐えているようにも思えるからである。二人でいながら、愛という名の孤独、そんな心象風景を垣間見ているのだろうか。「何でも自分の要求通りに満たされると、かえって自分が充たされないの、見捨てられたような気がするの」とある女子学生は言っていた。
 そんな弱音を吐く学生であるが、試験の時間になると主役はわれわれだとばかり一転して強気になることがある。試験監督をしているとき、学生の脇に立って答案を読み始めると、昔の学生は考えているような仕草をしながら頭や肩でさりげなく答案を隠した。時間が限られている試験だが、教師が立ち去るまで鉛筆を動かすことはめったになかった。
 これに対して最近の学生は、それほど答案を隠さないし、教師が読んでいようと平気で答案を作成している剛の者もいる。学生の心の世界には教師は存在しておらず、まさに傍若無人の若者の心性がその場に再現されている。何者にも邪魔されず、自分の世界の中に遊んでいるような印象を与える。自信に満ち溢れているかのように見える。こうした学生気質の変化はどう考えられるだろうか。
 試験と言えば、われわれがよく見る夢に試験に遅れる夢がある。徹夜に近い試験勉強をしたときによく見るもので、朝目が覚めたらとっくに試験が終わっている時刻だ、ああ困った落第だ、どうしようという不安に駆られて目が覚める夢である。不安に目が覚めるが、このタイプの夢は不安の夢ではない。夢本来の感情はまさに反対である。つまり試験に遅れてよかった、試験を受けずにすんだ、本当の実力を評価されなくてよかったという安堵感をえるのがこの夢の目的である。試験に遅れる夢で充足される願望は、自分の真の姿はどこまでも隠しておきたい、見せたくないというものである。それというのも、自分の姿を他人に見せれば、自分も他者の目を通して自分の姿を客観的に見ざるを得なくなり、自らの限界を思い知らされ、ナルチズム喪失の危険にさらされるからである。
 こう考えると、昔の学生は自分の真の姿を隠しておきたいという願望に支配されていたが、最近の学生はナルチズムを克服し、自分の真の姿を見ようとしていると言えそうな気もする。しかし、最近の若者は、母親からの自立の宣言である空を飛ぶ夢をあまり見ていないし、カラオケに夢中になっている姿などを見ていると、どうも自分の真の姿を見たいというよりも自分の姿を他人に見せたいだけで、幼児的な露出の願望に支配されているのではないかと考えたくなる。典型的な露出願望の夢は、裸体で困惑するというもので、これは自分の身体を見せたい、つまり他者を誘惑したいという願望だけではなく、自分は独りぼっちではない、みんな自分のことを見てくれているという願望をも充足する。三分間のステージにうつつを抜かす若者は、淋しい恋愛を重ねる女子学生と同様、自分に関心を持つ人などいないという悲しい発見を否認をしようとしているのかもしれない。
 本当の自分を知りたいと言う学生は多いが、肥満ネズミのように、見せかけの愛は与えられたが、本当に親に見捨てられた子どもであったとしたら、そんな自分の姿を見続ける勇気のある人はどのくらいいるのだろうか。


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