源氏物語を読む会

1997.3  これは「花宴巻」を読んで、調べてみたことと空想を書いたものです。時間があったら読んでみてください。もう少しリンクとか張りたいんで、工事を続けます。

花宴の巻の月と桜

  

  1. 紫式部の見た月
  2. 一月遅れの桜
  3. 入るさの月と弓張り月
  4. 弘徽殿の鬼

                                                                                                                                                 
1 紫式部の見た月
「源氏物語を読む会」2月例会で、話題になったことに、二十日過ぎの月は西に傾くかという問題があった。結論から言うと陽暦4月初旬月齢22日の月は南中の時点で夜が完全に明けており、月は西には沈まないし、傾きもしないのである。しかし、千年前、紫式部の見た月ははたして現在と同じように都の空に浮かんでいたのだろうか。作者はどのように『物語』の中に下弦の月を投影したのだろう。
そういう疑問を同僚の物理教師(山本明利氏)に話してみたら、パソコンの天文シミュレーションソフトを紹介してくれた。いつのいかなる場所の天文現象でも表示してくれるもので、紫式部が見た月もそのまま再現してくれるのである。『道長公記』にある月食まで見せてくれたのには驚いた。まるでタイムマシンに乗ったような気持ちになって、さて、それでは紫式部が見た月をいつにするかと思案をしたのだが、これが難しい。できれば、この「花宴」巻を書いたころ、そして桜が満開で、二十日過ぎの月が見られる頃にしたい。『源氏物語』がいつ書き始められたかもはっきりしないのだから、「花宴」巻がいつかなどということはわからない。物語起筆1001年という説があるようだから、その前後だろうか。そして桜が満開になる、あるいは実際の花宴がいつごろ開かれるものなのか、それもはっきりしなければならない。
 同僚の日本史教師が平安時代は平均気温が2度は高かったと言う。そうすると桜の満開の時期も早まるだろうと考えられる。『気候の語る日本の歴史』(山本武男著)という本を紹介してくれたので、それにあたると900年代の花宴がすべて陽暦で表になっている。その表によると花宴開催は、年によってずいぶん違うのだが、基本的には陽暦4月初旬から中旬ということであった。そこでとりあえず起筆の1001年以降で探してみるのだが、もう一つ決定しておかなければならないのは、二十日過ぎの月は月齢何日を想定すればいいのかということである。結論から言うと22日の月、つまり下弦の弓張り月を想定した。「花宴」巻後半にはっきりと、一月後のことであるが、弓張り月という言葉が出ているし、22日なら満月の一週間後で計算しやすいということもある。
 花宴という行事は式部にとっては他人事ではない。父為時が1006年の花宴で献詩を行った。もし仮に「花宴」巻執筆の動機がこの事実と関係するならば、この年以降を探してもよい。1001年起筆とすると「花宴」巻成立がここまで下るのはやや遅いとは思う。しかし『源氏物語成立攷』(玉上琢弥)によれば、帚木の並びが先で、若紫の並びが次、それぞれ短編であったということだから、1006年まで待ってよいかもしれない。
 1006年の花宴は陰暦三月二日であるから、桜満開の頃の月齢22日を探すと、翌1007年の陽暦4月13日(ユリウス暦)が候補の一つになる。前年花宴の時期に比べるとやや遅いのだが、この夜の空をシミュレートしてみた。この年の花宴の記録はないので、はたして弓張り月と桜の共演が行われたかどうかはわからない。しかし、中宮出仕1006年年末説をとると、式部にとって宮中での初めての「桜に下弦の月」ということになる。 この日の月の出は0:24,東山から出るのは1時過ぎ、2:30には高度20度に上がる。この日の天文薄明は3:57で、日の出は5:20,月南中は5:40である。月の出は月齢によって大きく変化するし、月の高度も季節によって違う。去年の今月今夜の月は必ずしも同じ時間には出ないし、来月の月のコースは今夜と違うものなのだ。式部がどの月を物語の中に投影したかで、朧月夜の君と源氏の邂逅の舞台はずいぶんと違うものになる。

 2 一月遅れの桜
 「花宴」巻の花宴は二月廿余日、そしてその一月後、三月廿余日に右大臣邸で藤花の宴が開かれている。「花宴」巻は全体が対置的な構造になっている。弘徽殿と藤壺の対置、宮中と右大臣邸の対置、南殿の桜(一本)と右大臣邸の二木の桜などなど。そして、月だけは同じ二十日余りの月、つまり弓張りの月(花宴の時は弓張り月とは明記されていないが)となる。
 二月廿余日と三月廿余日、この一月の差は桜という植物にとっては大きなものである。同じ品種の桜で、同じような場所に咲いているものが、一月も遅れて咲くというのは難しい。だいたい季節そのものがまったく違うと言ってよい。三月中は確かに春の内ではあるが、藤の花は本来初夏のものである。一月遅れの桜はあきらかに種類の違うものと考えたほうがよかろう。
 南殿の桜、いわゆる左近の桜は、吉野から移されたものだという。そうすると品種はヤマザクラである可能性が高い。吉野では金峰山開祖の役行者以来、桜が神木になっている。桜の寄進者が後を絶たず、今に残る千本桜の景観を作り出した。現在、吉野山地の桜の八割がヤマザクラであるということである。左近の桜が吉野のものであるというのは、最初の内裏炎上による再建の時の記録にある。 
 さて、二木の桜は「花宴」巻の記述によれば、散り残りというような印象を与える。しかし同じ品種の桜が一月も遅れて咲いているというのは、繰り返して言うが、普通でない。桜は、現代でも開花前線と称するものが発表されるように、一斉に開花するもので、その花期も短い。やはりここでは違う品種を想定すべきであろう。もっともふさわしいのはヤエザクラだと思う。ヤエザクラも単純に桜という例は多く見られる。
 1006年の花宴で式部の父為時は、ヤマザクラのもとで献詩の栄誉に浴した。このことが家族思いの式部にとって、重要なことであったろうことは想像に難くない。「花宴」巻の博士は笑い者にされているような印象だが、これを式部の韜晦とうがって見れば、逆にどれほどこの事を大事に考えていたかが推察される。中宮出仕がこの年の末であるなら、自家の名誉は同僚たちに対して『物語』とともに彼女の勲章であったに違いない。
 そして、その一年と一月後、もう一つの桜、ヤエザクラに関わる事件が起こる。1007年興福寺のナラヤエザクラ献花にあたって、紫式部は同僚伊勢大輔に詠歌の大役を譲った。大輔はこのとき「いにしへの奈良の都の八重桜今日九重に匂ひぬるかな」と詠み、抜擢に答えている。大輔は式部に恩義を感じたようで、式部は中宮内にシンパを得ることになる。 前年の父の献詩とこの献花の件と、式部にとっては二種の桜にまつわる重要な出来事が起こっている。これをもって「花宴」巻執筆の動機だなどと言うのは素人の浅はかな考えだろう。しかしもし逆に、『物語』が先で「事実」が後であったなら、さらに面白いと思う。そして式部にとってはさぞ感慨深いことであったろう。

3入るさの月と弓張り月
   深き夜のあはれをしるも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ
 源氏が朧月夜の君を襲った時の歌である。『孟津抄』にも「入方の折節」とあって、いかにも月が西に傾いたような状態に解釈しているが、先にも述べたように、下弦の月は沈まないし、傾きもしない。ではなぜ、「入る月」なのだろうか。
 このことを考える前に、一つ付け加えておかねばならない。紫式部はこの部分を書いたときまでに、内裏の弘徽殿から月を眺める機会はなかっただろうということである。式部の中宮出仕以前の1005年十一月に内裏は焼亡し、彰子が再建内裏に還啓するのは1011年を待たねばならない。この年以降「花宴」巻が成立したというのは、あまりに遅かろう。そして出仕以前の式部が宮中に出入りしたとも思われない。内裏焼亡から還御まで、里内裏は主に一条院に置かれた。ここでの彰子の居所は東北の対で、萩谷朴氏の考証によれば、式部の局は東の細殿にあったという。桜の季節の下弦の月を式部がここで見る最初の機会は、ちょうど伊勢大輔詠歌の直前である。一条院の東側は猪熊小路に面しているから、式部の局からは東の空がよく見えたはずだ。晴れていれば、下弦の月も眺められたに違いない。
 さて、『物語』の舞台は内裏の弘徽殿である。この殿舎は内裏の西側に位置しており、東南の空はやや見にくいだろうと思われる。もし、朧月夜の君が下弦の月を眺めるのならば、やはり東庇から見ることになろう。しかし、月は動く。そのうち東南にかかると、瓦垣という渡殿が邪魔になり、さらに南に移ると承香殿の屋根にかかる。 この月を見るためには南庇を西に移動して承香殿の屋根を見越す位置に来るのがよい。東庇を北に移動する方法もあるが、復元模型写真で見るとわかるとおり、案外視界は開けない。そしていずれ南に来る月は軒に隠れて見えなくなる。月を見続けたい人の心理としては南庇に移動するのが順当である。復元模型のカメラの位置はかなり高いが、ここまで月が上がると南庇の見通しのよさがわかる。
 この『物語』の書かれざる状況を自分なりに推理すると、女君は午前1時ごろ東山から昇った月を眺めていた。そのうち月が東南に移動して屋根にかかると今度は南庇を、殿舎を見越すために、西側へ移動した。一方、月明かりで藤壺のあたりをうろついた源氏は、むなしく東に隣接する弘徽殿に来た。弘徽殿の西庇、細殿のある側である。そして上がりこんで「けはひ」をうかがっていると、向こうから「こなたざま」に女君が来る。それを「やおら抱き下ろして」西の細殿に入れ、戸を押し立てる。こんな状況になる。
 こう考えると、歌の「入る月」は空の月ではなく、朧月夜の君が西の細殿にむりやり入れさせられた状態を言っていると理解できる。女君は東から南にたゆたい、やがては下弦の月と同様、夜明けの空に光を失って、朝の眠りをむさぼったことであろう。月は北の空を通らない。地上の月である女君もやはり南を通っていくのがいい。
 さらに、南庇は清涼殿の北側に面している。いづれの帝か女御恋しさにいつもこの北側から弘徽殿をのぞいていた方があったそうだ(『栄華物語』)。まぢかに東宮出仕を控えた人を、御代替わりの後にはその主となる殿舎の目前で奪う。このほうがスリリングなのではあるまいか。そしてこのとき姉君弘徽殿女御は清涼殿北側にある上局に伺候していた。こうなると二重の罪の犯しになろう。 明け方、藤壺宮は女御と入れ違いに清涼殿に向かったから、このとき登場人物たちはお互いにそれと知らず、ニアミスをしていたのだ。女御は承香殿を通り弘徽殿に還り、宮は飛香舎を出て、後涼殿から清涼殿に向かったろう。そして源氏と女君は弘徽殿のとある局で秘やかな時間を過ごしている。やはり演出としてはこの細殿は東でも北でもなく、西の細殿、しかも南側に近いところを想定するのが一番いい。
  4 弘徽殿の鬼
  「承平元年六月廿八日未の刻衣冠著たる鬼のたけ一丈あまりなるが弘徽殿のひんがしの欄のほとりを云々」(古今著聞集17変化)とある。承平元年と言えば931年で、『物語』の舞台設定の頃に近い。未の刻は午後一時から午後三時。この鬼は昼日中、何の目的があったか衣冠束帯で弘徽殿に現れ、消えていった。「大鏡」にも似たような話はあるが、内裏というところは鬼の跋扈するところである。朧月夜が源氏に襲われて、「ここに人」と言ったとき、それは「ここに鬼」でもよかったはずである。承平の鬼は物語の舞台にはなじまないのだろうか。あるいは姫君の口から鬼という言葉は発しがたいものなのか。
 天皇の私的空間である後宮を、酔ってストーカーよろしく徘徊する貴公子もモンダイだが、その私的空間にフォーマルな装いをして、白昼現れる鬼も鬼である。こうした伝承は寛弘の当時も伝えられていたのだろうか。そしてその中で何が作者の網にかかり、何が捨てられたのだろうか。情報源は身近なところにあり、そして物語としてそれをフィード・バックされる者も、ごくそばにいるその人々である。書き上げた即その場から漁るように持っていくような状況(『紫式部日記』)の中では、原稿の校正は読者にゆだねられるようなもので、物語の世界は現実感を失いようがない。紫式部が弘徽殿に入ったことがあろうがなかろうが、月を見ようが見まいが、そんなことは主要な問題ではないのかも知れない。しかしいかな天才でも、身の回りのできごとに左右され、自分の目で見たこと聞いたことに触発されることに代わりはないだろう。もし可能なら、彼女のエレクトラ・コンプレックスも分析してみたいものである。

冒頭に戻る

900年代花宴の記録(『気候の語る日本の歴史』そしえて文庫・山本武士著) 
         陽暦はグレゴリオ暦

延喜12.3.9  912.4.4 新儀式
延喜17.3.6 917.4.5 河海抄 禁秘抄
延長4.3.15 926.4.7 河海抄
天慶4.3.15 941.4.19 日本紀略
天暦3.3.11 949.4.17 日本紀略
天暦4.3.11 950.4.5 拾芥抄
天徳2.2.13  958.4.19 日本紀略
広和元 3.5 961.3.28 日本紀略
広和3.3.3 963.4.4 西宮記
康保2.3.5  965.4.14 日本紀略
康保3.3.10 966.4.8 日本紀略
康保4.2.26 967.4.13 日本紀略
安和2.3.14 969.4.8 日本紀略
天延2.3.18 974.4.18 日本紀略
貞元2.3.26 977.4.22 扶桑略記
寛和元3.7 985.4.5 小右記

冒頭に戻る

源氏物語を読む会

harabinのホーム・ページ