森田療法、剣道の応用について

私どもの所では、小さな剣道の道場を持ち、それを森田療法の治療に
応用しています。
これは私の父の試みでしたが、今も受け継いでやっています。

剣道の理念とは、全日本剣道連盟によりますと、
「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である。」と昭和50年に
規定しています。
難しいことはよく解りませんが、このような高邁な理念を掲げているものが
神経症に悩む患者さんに応用できるのではないかと考えた次第です。

人と人とが相対して、真剣に何事かをなすというところに意味がありそうです。
現在社会に生きていて、滅多にない、相手に自分の頭を打たせるという
人間関係から始まります。そして相手の頭を打つと言うところに帰着します。

道場という修行の場において、師匠の頭を叩くことから始まるんですから、
人間関係の希薄になった現代社会においてはちょっと変わった、
密な人間関係のあり方かもしれません。
基本動作は相手に面を打たせることから始まります。
単に大きな声を出して、前に出て、先生の頭を叩くだけでも
大変なことだと思います。大声を出して思い切って相手に向かって
打ちかかるなんてなかなかできることではありません。
そうやって一所懸命に心身を働かせることにもとても意味があります。
現実の中で、相手とともに、非言語的に、かなり深いところまでわかり合える
ちょっと変わったコミュニケーションなのではないでしょうか。
そこに独特の意味があるように感じています。
また、もう一つの良いところは、これからの超高齢化社会に向かって、
年をとっても若い人と共に楽しめる可能性が高いという点です。



目標とすることは一本の面を相手から戴くことにあります。
自他ともに追求する真の一本を求めて修行が行われるわけです。
この真の一本がなかなか得られるものではありません。
気剣体の一致がなくてはなりません。
そのためには執着を離れ、身を捨てることが必要になります。
無心になるということです。無心になったとき初めて最も合理的な行動が
とれているという、一見矛盾した心の働きを心身を働かすことによって
体得してゆくのが稽古になろうかと思います。

その際いろいろな邪魔が入ります。怠け心ですとか、気分が乗らないとか、
時間がないとか、経済的なこととか、ありとあらゆるものがあるでしょう。
その中に剣道の四戒というのがあります。四つの戒めですね。
驚怯疑惑を去れと言うものです。
昔の人は驚怯疑惑を剣道における四つの心の病と考えたようです。
これらは皆人の心の持っている本性に根ざしています。
驚き、怖れ、あるいは怯え、疑い、惑うということですね。
パニック障害に似ていませんか。私は神経症の心のかたよりに
似ているように思います。
こういったものと対峙して、我を捨てて、わが身を捨てて打つのが
真の一本につながるのでしょう。
昔の人でしたら生死を踏み越えたところに活あり、というところでしょうか。
ここに竹刀剣道と形の稽古、古流剣術、などの一致点があるように
考えています。
森田療法では「症状はあるがままに、目的本意に行動せよ」と教えています。

そんなわけで、真の一本を求めて修行してゆくわけですが、
その目的はといいますと人を切ることでなく、打つことでなく、
勝つことでもありません。克己ということは必要です。
目的は自分自身の生き方を修めることでしょう。
修身ということでしょうか。

こんなところが、「とらわれ」という心のかたよりに悩む人の
治療に使えそうです。

そうして基本動作を学びますと相対しての引き立て稽古になります。
この頃になりますと、相手は動きが自由になり、どんどん打って
くるようになります。身体を動かすこと、気を入れることなどができてきて、
相手をしていますと、顔が上を向いてきて、目がこっちを見るようになり、
目が開かれ、心も開かれて行くように見えます。



それで、道場の名前も「啓心館」としています。

互いに、一対一で向かい合い、真剣にぶつかりあえる、相手を打ち、
相手に打たれる人間関係の成立です。
礼を重んじることによって単なる撃ち合いを、人間の成長に資するように
姿を変えたのは江戸時代の剣術家の知恵なのでしょうか。
ここからは相手との切磋琢磨であると同時に自分との戦いになります。

気剣体の一致を求めて、気を働かせ、身体を使うわけです。
お互いに相手の隙を打ち、攻防一致を学び、身を捨てて打つことによって
天地自然と一致することを学びます。
このところなど、森田療法で言う、あるがまま、目的本意になすべき事をなせ。
に相通じるものがあります。

教える側は、打たせることに始まり、打たせることに終ります。
これは、私が弱いせいでもありますが、私の場合はそうなってしまいます。

本来は相手の隙、まがったところ、悪いところを打ってあげることによって
相手を導くようにするらしいのですが、そんなことはできません。
打たせて打たせて終始します。あとは良いところをほめるだけです。
それで良いのだと考えています。

いままでの剣術修行を通じて、得られたものは自分の弱さを知ったという
事でしかありません。人それぞれ得るものは違うと思いますが、
私の場合はそうなんです。

これはもう何年も治療のための剣道を続けてきているからかもしれません。
治療のための剣道では、相手を受け入れ、育み、成長を期待して行くのみです。
のびのびと身体を使えるように引き立て、打たせ、ほめるのが癖になって
しまいました。私の所の稽古はそれで良いのではないかと考えています。

いま暫く、老若男女が共に集い、共に楽しめる
優しい稽古場を主催して行こうと思います。