山影冬彦の漱石異説な世界・資料篇

  4、写生文としての『坊つちやん』

           (「松山坊っちゃん会会報」第4号掲載文を手直しして転用)


 子規提唱の写生文は「ホトトギス」の流儀となり、漱石も同誌に『猫』と並行して『坊つちやん』を載せた。発表の時期と場所から『坊つちやん』も写生文だろう。だが、『坊つちやん』の写生文性を作品に則して論じた例は意外に少ない。

 漱石の写生文理解は独特で、『坊つちやん』一年後の「写生文」でそれをまず確認する。

 人事描写の写生文を特徴づける要点ながらも誰も論及しない論点と断り、漱石は作中人物への「作者の心的状態」をあげる。

 その上で「大人が小供を視るの態度」と譬える。作者が大人、作中人物が子供である。立場の違う大人は一々子供の泣き笑いに同調して一緒になって泣き笑いなどしない。作中人物の言動を叙するに、作者が同調せずに距離を保って余裕で臨む「心的状態」にあることを示す譬えだが、風変わりだ。

 この点は評論「写生文」と小説『坊つちやん』の関係に眼を向けさせる。執筆順序は後者が先だ。写生文の特徴として漱石の脳裏にこの風変わりな譬えが閃いたのも、『坊つちやん』で成人の主人公を「小供」扱いした実作体験があるからではないか。事実、漱石流写生文の特徴は、主人公の言動への漱石の「心的状態」として、作品『坊つちやん』の滑稽痛快場面に具体的に看取しうる。


 手始めに『坊つちやん』という題名と「おれ」という主人公の自称の齟齬に注目する。

 「二」で初対面の者に綽名をつけまくり、それで押し通すのに、自身に似合いの綽名=坊つちやんには憤るというような、やんちゃ者として漱石は主人公を描く。坊つちやんの呼称を嫌う主人公は名無しで自称に「おれ」を使う。

 主人公に倣い主人公を「おれ」と表記するのが最近の漱石研究者の風潮となっている。この風潮は主人公の言を真に受けすぎで、倣うべきは主人公の我が儘を許さず題名を『坊つちやん』とした漱石の澄ました姿勢である。漱石は主人公に同調せずに坊つちやん扱いするわけで、ここに写生文としての「大人が小供を視るの態度」を読み取るべきだろう。


 次に序盤で学校騒動を観る。

 デビュー授業で主人公がわざと東京訛のべらんめい調で数学を講釈し、生徒を烟に捲けたと得意がるのは、<べらんめい授業事件>と呼ぶべき稚拙行為で、悪戯生徒との騒動の発端をなす。だが、本人に自覚はない。

 その後天麩羅蕎麦事件では授業放棄で空回りし、怪しげな団子事件の後では温泉諸事件で衆目を集める。

 それで招いた監視態勢への警戒心も皆無で、宿直をサボって話題沸騰の温泉現場に出向き、留守中生徒にバッタ事件の準備を許す。

 バッタ事件が起こるとべらんめい調の稚拙な遣り取りで松山弁の生徒への説教に失敗し、逆にやり込められて増長させ、招いた咄喊事件では生徒の作戦に翻弄され、窮地に陥った自己を支えるべくチャンバラごっこ風に放った「多田の満仲の後裔だ」との述懐で只の饅頭に転落しても気づかぬ滑稽ぶりで、蚊攻めに耐える徹夜の持久戦に出て騒ぎを翌朝まで持ち越し、狸校長の出動を招く。

 となると、学校としては悪戯生徒の処分を職員会議で議論する外ない。主人公が一方的な被害者意識を募らせて会議に臨むと、赤シヤツが責任の一端は教師にありと仄めかして生徒への寛大措置を主張したので、内心猛反発する。すると、直前に仲違いしたばかりの山嵐が赤シヤツを反駁し、生徒への厳罰主義を主張したので、感激して賛意を表明する。会議の結論として山嵐の主張が通ったことで、敗れた赤シヤツが山嵐攻撃の好材料を掴んだ。山嵐の主張で厳罰になったとの会議情報をありのまま洩らすだけで、厳罰を受けた生徒を山嵐攻撃に誘導できるからだ。


 一連の学校騒動では主人公が生徒の悪戯に翻弄され通しだが、生徒が悪いにしても一方的な加害者であるわけではない。主人公の側にも生徒の悪戯を誘発し増長するような教師としての稚拙な対応が目立った。

 赤シヤツの寛大論は事態を直視しており、山嵐の厳罰論こそが事実認識を誤り、勇み足だった。

 事態は、<べらんめい授業事件>でのデビュー以来羽目を外しっ放しの新前教師に悪戯生徒がちょっかいを出したら、教師が過剰拒否反応を示して騒ぎを大きくしたといった図式で、主人公がこれに気づかず一方的な被害者意識を募らせて力むから、力めば力む程抱腹絶倒の滑稽劇となる。

 そのように計算して漱石は主人公に力ませ語らせている。この計算された滑稽劇という仕掛けが可能なのは、漱石が主人公に同調せずに余裕をもって描くからで、人事描写の写生文の特色を活かした訳である。


 さて中盤に移って、赤シヤツによる坊つちやん・山嵐離間策を探ろう。

 下宿の件での赤シヤツの仄めかしは海釣の翌日的中し、いか銀の訴えで山嵐が退去要請してきた。身に覚えのない難癖に主人公は山嵐に立腹して絶交する。
 昨日の仄めかしが今日的中で出来すぎだから、赤シヤツの離間策が蠢いたに違いない。
 その状況証拠は、主人公退去の翌日野だいこが入居する形で浮上する。これも出来すぎた話で、翌日の入れ違い入居は数日前からの約束事を物語り、海釣時の仄めかしが成約を知った上でだと推定できる。
 
 離間策はこうだろう。赤シヤツは野だいこを通じて、好条件で入るから奴を追い出せといか銀を誘い、退去の催促は山嵐に頼めば手間いらずだと囁き、他方自ら釣で釣って、主人公に「油断の出来ない」と仄めかしておけば、世話焼きの山嵐と喧嘩早い主人公の仲は自然と裂ける。
 事実そうなった。おめでたい話だが、主人公は野だいこの入れ違い入居に呆れるばかりで、離間策を察知する好機を逸して山嵐との絶交は続く。

 山嵐との和解成立は「九」でだが、赤シヤツの離間策を覚ったからではない。和解の契機は別で、うらなり追放策の発覚で赤シヤツ不信任が成立し、そこに折よく山嵐がいか銀に騙された旨謝ったからだ。
 その際にも今まで離間策にハメられていたとは覚らない。この件では主人公は赤シヤツに手玉にとられたことに終始無自覚だった。

 赤シヤツの離間策は重要な筋書を構成する。これはマドンナを核とする四角関係劇絡みで蠢き、序盤の学校騒動劇から終盤の四角関係劇へと橋渡しの役を中盤で担う。またこれがあるから主人公側の仲間割れで物語に曲折ができ、飽きない。読者は焦らされ、主人公はいつ山嵐と和解するのかと待ち望むことになる。
 
 そういう重要な筋書の離間策が、ハメられた当人には真相不明のまま語られる。だが、読者がよく読めば自ずと判るように漱石は巧みに描いている。

 それが判ると、どういう印象が生じるか。語り手の主人公が世間知らずの坊つちやんだという印象を一段と強める。漱石はそれを計算している。こんな芸当ができるのも作者の「心的状態」が主人公に同調せず余裕をもって臨んでいるからで、ここにも写生文の特徴を活かした形跡を確認できる。


 最後に終盤で四角関係劇を観る。

 マドンナ・うらなりの婚約関係に赤シヤツが介入しその赤シヤツに山嵐が文句をつけていがみ合う四角関係は、主人公の赴任前からあったが、終盤で急浮上し、以降これを軸にして諸事件が展開する。

 四角関係の当事者でない主人公は一見脇役のようだが、そうではない。終盤においてこそ漱石の言う「美質」=魅力を発揮して人間的に輝く。
 序盤は生徒に翻弄され通し、中盤は赤シヤツにハメられ通しで滑稽を演じた主人公が、終盤に到って赤シヤツへの反撃に出、真骨頂を発揮する。
 痛快な山場を盛り上げるのは主人公に相応しい劇的立ち回りだが、今までの滑稽ぶりから脱したわけではない。滑稽のまま痛快になれるところに主人公の魅力の特質がある。
 
 主人公の赤シヤツへの反撃はいかにも坊つちやんらしい稚拙な形で行われた。紙幅の都合上その一点に絞る。

 うらなり追放策絡みと悟るや主人公は赤シヤツの増給提案を断る。餌の拒否、友への人情重視という胸のすくような行動で、漱石のいう「美質」の現れだ。主人公は土壇場で赤シヤツの奸策からわが身を守った。

 ただし論破して奸策を撃退したのではなかった。論破できず、例によって丸め込まれそうになったが、撃退した。「人間は好き嫌で働らくものだ。論法で働らくものじゃない」を楯にして。

 この楯はそれ自体としては、論理を拒否し好悪の感情をむき出しにする幼稚な発言で、駄々っ子の暴論に等しい。そのことに主人公は無自覚だ。こんな暴論が罷り通ると社会生活は成り立たない。だが、赤シヤツに騙されまいと懸命に抗う坊つちやんの発言としてはうなずける。よく言ったと拍手の一つも送りたい気分になる。

 単純すぎる主人公はそれまで「嫌」な赤シヤツに「論法」で丸め込まれ散々な目にあわされた。その経緯を知る読者には、駄々っ子風の暴論は、「論法」では太刀打ちできない子供が「好き嫌」の情を楯にして、「論法」の矛を駆使する大人に騙されまいと身を護るもので、滑稽ながらの抵抗の表明として微笑ましく響く。
 漱石は主人公をして、いかにも坊つちやんらしいやり方で赤シヤツへの不信任という痛快事を決行させた。正しく写生文のなせる技である。


 序盤の主人公は稚拙な教師で、終盤でも同じだからこそ痛快に振舞えた。それを強調して締めたい。
 
 喧嘩事件報道で職を追われた山嵐に連帯して主人公は進んで辞職する。この私欲に囚われない胸のすく快挙が可能なのは正直・公平といった性分によるが、稚拙な教師だからでもある。生徒思いの熱心な教師が同じ局面に立った場合を考えると、未練なく辞職することなどありえない。

 主人公の辞めっぷりは実にすかっとしたもので、教師として稚拙だからこそなしえた快挙だ。滑稽な序盤での稚拙な教師ぶりは痛快な終盤での人間的快挙を実現するための伏線だった。滑稽痛快劇が漱石特製の写生文に支えられて成り立つのが『坊つちやん』の世界といえよう。





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