ガリバ-旅行記と日本

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 はじめに

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「ガリバー旅行記と日本」

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オランダ人と踏み絵

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ガリバ旅行記とケンペルの「日本誌」

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ガリバ−旅行記のキーワード  The compound eyes of Gulliver



はじめに

 「ガリバー旅行記」の中で、主人公のガリバーが訪れる国の内、唯一実在の国が日本です。
他はすべて架空の国であるのに何故スウイフトは「日本」を入れたのでしょうか。
当時(近世)の日本や中国は、ヨーロッパからみると異教の国ですが、彼らと同等の文明国とみられていました。
特に日本は鎖国(管理貿易)状態にあり、銀や銅の輸出国として、又、陶器、着物などの工芸品や茶の湯などの文化をとおして日本が紹介されていて、当時のヨーロッパ人には、日本は、あこがれの「ジパング」だったのかもしれません。
 当時のキリスト教のドグマと文明に毒されたヨーロッパは、腐敗、闘争、陰謀にあけくれており、新大陸や東洋などが、非キリスト教の国であっても遥かに平和で幸福で、一種の道徳秩序が行われている「自然世界」とみられていました。
17〜18世紀のヨーロッパでは、風刺的架空旅行文学が一種の流行を生んでいました。
当時の日本についての情報は、主として
(1)1600年イギリス人でオランダの航海士として日本に漂着し徳川家康の側近として召し抱えられた三浦按針(W.Adams)の書簡(パーチェス巡国記)(1625年刊行)
(2)オランダ人の記録でキリシタンに行われた厳しい取り締まりや拷問を伝えたモンタヌスの「日本誌」(1670年英訳刊行)
(3)1690年オランダ船船医として渡来し2年間滞在したケンペルの 「廻国奇観」(1712年刊行)や「日本誌」(1727年刊行)の草稿
等が、識者の間では、読まれていましたと考えられます。
 特に、ケンペルの「廻国奇観」「日本誌」(草稿)は、鎖国政策(一種の自給自足)が安定した内政と高い文化の国造りに望ましい効果をもたらしている事例として、「ポジティブな日本像」を描き出していて、スウイフトが「巨人の国」や「馬の国」など他国と交流のない島国を理想郷に近いイメージで書いているのも、こうした影響があったのではないかという論説があるほどです。三浦按針(W.Adams)やケンペルの日本紀行を中心とする日本の情報は、「ガリバー旅行記」に直接、間接に反映されており、東西の文化交流を考えるにあたってとても興味深いものがあります。




1"Gulliver's Travels and Japan(ガリバー旅行記と日本)"

 
これらの問題をとりあげた小論文は、「Gulliver's Travels and Japan(ガリバー旅行記と日本)」です。

1977年に発行され、同志社大学の「東洋を研究する人々」のための"Moonlight"という出版シリーズの一つで、著者は、ペンシルバニア大学Maurice Johnson、仙台の東北学院大学Philip Williams,京都の同志社大学Kitagaki Muneharu の三人の方々です。(所属は当時のもの)

この小論文では、次の2点に注目しています。

(1)スウィフトは、ガリバー旅行記になぜ日本を取り入れたか。
(2)主人公「ガリヴァー」像が、日本にきたアダムスとケンペルから抽出され再構成された姿に似かよっている。


(1)スウィフトは、ガリバー旅行記になぜ日本を取り入れたのか。

 1639年徳川将軍は、西欧との結びつきを断ち、長崎の小さなオランダ商館を除いて鎖国時代に入りました。中国や、朝鮮などとの交流はあったのですが、西欧への鎖国状態は、以来200年間、1853年のペリー黒船来航まで続きました。
オランダだけが、年に1−2回、船で、牢獄のような居留地、長崎港の出島に運び込むという、わずかな貿易の足がかりを持っているに過ぎなかったわけです。
しかしながら、オランダの独占的なコンタクトは、英国人の非常な関心事でした。東アジアの富の貿易圏から英国が締め出されていたからです。英国人は、常にオランダへの反撃の機会を狙っていました。特に、「絵踏み」など日本における反キリスト教的施策に対するオランダの金銭がらみの屈辱的服従は、英国人にとってオランダ攻撃の絶好の材料でありました。
 こうした時代背景において、スウィフトは、17世紀日本で生活した英国人、ウィリアム・アダムス(1554-1620)が記述されている「パーチャスの巡国記」(1625)をよみ、さらに、ケンペルの「日本誌」の翻訳に興味を示し、そこにかれの想像力を駆り立てる材料を見出していったと考えられています。
「踏絵」の記述をしオランダを攻撃するために、わざわざ、日本にガリバーを立ち寄らせたとも言えます。

(2)主人公「ガリヴァー」像が、日本にきたアダムスとケンペルから抽出され再構成された姿に似かよっている。

スウィフトが、この二人から採用したガリバ−像の素材は、次ぎのようなものであったと考えられています。
 
◆オランダ人になりすました英国人(アダムス)の船医(ケンペル)が、痛ましい経験を経て日本へ漂流する(アダムス)。
◆皇帝(江戸)のところへ連れて行かれ、投獄された後、母国での生活を説明させられる(アダムス)。
◆彼を殺そうと主張するポルトガル人の抵抗に会うが、慈悲深い日本人通訳によって皇帝の前に連れて行かれ(アダムス)、床をなめる儀式をおこない、ダンスや猿真似をさせられ、プライドを傷つけられる(ケンペル)。
◆皇帝の高い信頼を得て、鉄砲や船の秘密や、ヨーロッパの宮廷について講述するなど、支配者の地位の高い助言者の一人として活躍し、100家族の従者を抱える領地を得る。(アダムス)
◆たびたび長崎へ行き、踏絵を知り(ケンぺル)、オランダ人のキリスト教への態度を呪う。
◆母国の家族への思いは、揺らいでゆき、ついには、完全に、英国に帰ろうとしなくなる。日本の生活の服装、習慣に染まってゆく。更に、彼は、出会うヨーロッパ人を拒否し、とくに「匂い」を忌避する。(アダムス)

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→「ガリバー旅行記と日本」(『はじめに』『緒言』のみの翻訳はこちら)



2.「オランダ人と踏絵」


(1)踏絵は、鎖国を象徴する出来事

 ガリバー旅行記の「日本」の中で「オランダ人は、キリスト教徒でありながら平気で踏絵を踏む」とスウイフトは書いています。日本での踏絵は当時のヨーロッパで相当有名であったようです。
ポルトガル、スペインのイベリア両国にとっては、貿易と布教は不可分でした。
しかし徳川将軍は、貿易は必要としましたが、キリスト教は無用であり、「島原の乱」をピークに多くの殉教者を出すことになりました。(この「島原の乱」の鎮圧にも、オランダは幕府に援助しました。)
 16、7世紀のオランダ人は、東インド会社を拠点に世界に植民地を広げ、キリスト教が禁止されている日本などでは祭式を控えるなど、信仰よりも経済的利益を優先していました。商工業中心のオランダは、ヨーロッパのどの国より先駆けて、封建的圧力やそれと結びついていたカトリシズムに抗して、「信仰の自由」「通商、航海の自由」「合理的で実利的な精神」「政治的自由」を先取りする思想を生み出しつつありました。
1600年日本に漂着したW.ADAMSの乗った船「リーフデー号」は、自由の象徴であるエラスムスの像が先導していました。オランダは自由と富の波に乗って世界へ進出してきましたが、アジアにおいてもイベリア両国及び英国に対抗して通商の独占を図ろうとします。
 日本にとってこのオランダの出現は、キリスト教的覇権主義を排し、オランダ一国との実利的な管理貿易(鎖国)を選択させることになりました。踏絵は、鎖国を象徴する出来事でした。
(この日本の「踏絵」は、当時のヨーロッパでは、オランダを中心に展開しつつあった自由思想が経済的利益のために人倫を踏み外す象徴的な事例として受け止められ、オランダのなりふり構わぬ貿易の独占的行為は激しい批判を他国(特に英国)から受けることになりました。)
この選択は、その後、日本の独自な文化を展開してゆくことになる反面、視野の狭い排他的な島国気質をもたらし、キリスト教などに内在している「人格」の自由などの普遍的な思想が育ちにくい土壌のまま、第2次世界大戦に突入することになりました。

参考→英国(個人主義)と日本(集団主義)の近代化

(2)天皇は宗教意識を統轄

 戦国から国が統一されてゆくプロセスで秀吉、家康は、キリスト教を排除しようとしますが、それは布教の裏面にポルトガル、スペインの覇権主義が隠されていることに気付いていたことによります。キリスト教を排除する論拠として日本古来の「神国」観が強調されてゆきます。
後水尾天皇の頃、徳川家は「公家衆ご法度」などにより天皇をはじめ公家衆を、権力の世界からはずし「学芸の道」に追込もうとしますが、その天皇に「神国」の担い手として、神仏の宗教意識を統轄しキリスト教を排除する役割を担わせます。国の権力は幕府が掌握し、天皇は宗教意識を統轄するという構図が明確にされます。この天皇の宗教意識を統轄する役割は、鎖国状態の江戸幕府においては特別に必要としなくなりますが、開国という外敵に直面した時の明治天皇において復活します。
 近世以降のこの幕府と天皇の基本的な役割について、興味深いことにケンぺルが把握していたことです。
「天皇とキリシタン禁制」(村井早苗著)によりますと、「キリシタンは神道によって排除され、神道の主宰者が天皇で、守護者としてキリシタンを排除するのが将軍である」という観念をケンぺルが持っていたと言います。
次の引用はケンぺルの「日本誌」からものですが、天皇と幕府の関係は、教皇と皇帝の類比で理解されたとも言えます。

「(幕府は)先祖伝来の神聖な皇室から俗界政治の全権力を取り上げ、兵馬の権を完全に自己の手中に収めた。しかし教界に所属する事柄については、一切の権力を少しも損なわずにこれを天皇に保留し、天皇は現にその権限を享有し、神々の正統な後継者として認められ、現つ神として国民から尊敬されているのである。」(ケンぺル「日本誌」)

(参照:「オランダ紀行」司馬遼太郎、「日英交流史1」東大出版、「繁栄と衰退」岡崎久彦)

注)リーフデ−号の最初の名前は、エラスムス号であったいわれ、エラスムスの木像が船首につけられていました。エラスムスは、16世紀オランダが生んだ「キリスト教的ヒューマニズム」のシンボルであり、スペイン圧制への反抗や魔女裁判などの残忍な迫害の中止など、17世紀のオランダ共和国の時代を先取りした政治、社会の精神的な支柱となっていました。
 日本では、この彫像は難破した船の付属していた「オランダ夷(蛮人)」の像として寺院に保存されてきました。


3.ガリバ旅行記とケンペルの「日本誌」

 1713年「廻国奇観」、1727年に「日本誌」が出版されて、「ガリバ旅行記」はその前年の1726に出版されています。
とすれば、ガリバ旅行記に、ケンペルの「廻国奇観」の鎖国論は参照できたとしても、「日本誌」の記録を物語のネタとして採用すること は時間的に不可能となります。
しかし、ケンペルの死(1716年)後、「日本誌」の草稿は、イギリスの蒐集家スローン卿の手に渡り、彼の秘書であるショイヒツア-に翻訳をさせています。→スウィフトとケンペルの関係年表参照
スウイフトは、ロンドンでは、スローン卿をはじめ友人との交流のなかで、史誌、旅行記の類いを目にする機会があり、ショイヒツア-の翻訳も、出版前にまわし読みされた可能性が高いと想像されます。
スウイフトは、パーチャスをはじめ、史誌、旅行記などたいていのものは読んでいましたし「ガリバ-旅行記」執筆中もそうであったことは書簡からも窺えると言います。
このケンペルの「日本誌」に先立つ英国における日本の情報は、「日英交流史I」(1999東大出版会)のデレク・マサレラの「1600年から1858年の英日関係」によれば、
(1)ポルトガルのイエズス会士による日本の記事:リチャード・ハクルート「英国国民の主要な航海」(初版出版1589、第2版出版1598〜1600)
(2)東インド会社の日本駐在員セイリスの航海記「パーチャスのアンソロジ-として記載出版(1613)
(3)スローン卿が調査させ、王立協会主席書記オルデンバーグが王立協会で発表した「日本に関する疑問への答えをいくつか含む」(1668叉は1669))
(4)東インド会社の雇われ牧師ジェームス・パウンドが、オランダ東インド会社から入手しスローン卿などに送った日本の情報(1705)
などがあり、スウイフトは当然このあたりの情報は入手していたと考えられます。
しかも、ケンペルの「日本誌」は、特に(3)(4)の概観的知識に豊かな肉付けを与えたものといわれており、たとえ、スウイフトが、ケンペルの「日本誌」の草稿を十分参照しえなかったとしても、同相当の知識は得られたのではないかと考えられています。
(中野好夫「スウィフト考」岩波新書、ベイリー「ケンペルと徳川綱吉」中央新書、「日英交流史I」(東大出版会)参照)