web版ロール・プレイング研究


川幡教授の第2弾。よこはまロール・プレイング研究会第301回例会(97年7月19日)のレジュメの文章です。ロール・プレイングでharabinが陥りやすい部分を指摘されました。教授のこの姿勢があるので、いつもながらこの会はストイックだと思います。


ロール・プレイングと認知

(「役割を演ずることの意味」より第1節を転写)

 われわれは、ロール・プレイングを何のためにやっているのか。現実には叶わない夢を舞台の上で演ずることで、快感を得ようとしているのか。思い通りにならない苦しい現実に耐えるために、一服の清涼剤として、役割を演じているのだろうか。不幸な結末に終わる現実の出来事に、少なくともドラマの中くらいは、ハッピーエンドを迎えさせたいというのだろうか。プロ野球を観戦するより、どんなに下手でも自分でやった方が面白いというように、稚拙巧拙を棚上げにして、愉快になるために心理劇を行っているのだろうか。
 ロール・プレイングには、こうした側面がないわけではない。また、快感を求めていないわけでもない。人間の行為は、詮ずる所、快感を求めているのだろう。とはいえ、3歳の幼児が求める快感があれば、22歳の青年が求める快感もある。甘い葡萄なら食べるが、酸っぱい葡萄は避け、甘い葡萄をだけを求める子どももいれば、甘いのも、酸っぱいのも、腐ったのも、葡萄には実にいろいろなものがあるということを知ろうとする若者もいる。腐った葡萄なんて、異臭を放つだけだから見たくもない、という人もいよう。しかし、これも葡萄の一つのあり方だから、直視しようとする人もいよう。
 われわれは、喜びをもたらす葡萄を求めるというより、葡萄とは何か、葡萄を理解しようとしてきた。美しいものを求めるのが人の一つの傾向であろうが、美しかろうが醜かろうが、ともかくも葡萄の真実を探そうとしてきた。真実を求めるためには、不快に耐えることができなくてはならない。現象を直視できなければ、理解は望むべくもない。この意味で、ロール・プレイングは、耐え難い不快を統制可能な不快に変えることを目指している。「ロボットにならず、少しでも理性的に思考するには、記憶組織を改訂し、過度の不快が発生しないようにしておくことが不可欠である。」(「ナルシストの限界:考えたくないこと」、第296回)
 葡萄という言葉は、他者と言い換えてもいいし自己と言い換えてもいい。われわれは、喜びを求めて他者、自己を見てきたのか。それともその真実を見極めようとしてきたのか。知らないうちが花などという言葉を作りだした日本人は、自己、他者を知ろうとしてきたのだろうか。(「ホスピタリズムの心理」)
 登校拒否児は、自分が何をしたいのか知っているのか。神戸の少年は、自分探しの過程の中で、どこをどう進んで、透明な自己、神のような自己(紙オムツと神おつむ)を作りだしたのだろうか。自分をどう認知するのか。他者をどう認知するのか。他者は、私のことをどう認知しているのか。私は、自分の役割をどう創造するのか。ロール・プレイングでは、こうしたことが、まず最初に問題として取り上げられなければならない。


 例会ではこの文章を読んだ後、前回のプレイを振り返り、その意味を考えていきます。それからプレイに入るのですが、川幡先生やメンバーの卓見を聞いて、「そうか、なるほど」と意気込んでやってみても全然わかってなくて、意気消沈するのがharabinのたいていのパターンです。今回はその私が監督をやって、「息子のテストを見て、愕然とする母親」というプレイをしたのですが、もう、わやくちゃでした。頭でわかったような気になっていることも、実際には何もできない、つまりわかってないんだということがわかるのは、辛いことであります。自分はやっぱり「腐った葡萄」なのでした。「実の入っていない葡萄」かも知れない。



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